帝国は何故必要なのか?

 このゲームをデザインしたのは“あの”「天羅万象」をデザインした遠藤卓司氏、井上純弌氏の二人である。彼らのやることには全て理由がある。実は、上に書いたアルシャードの基本的な図式は全て、考えに考えられ、それまでのFEARのゲームで培われたノウハウをブラッシュアップして詰め込まれたものなのだ。

 例えば、PCがシャードを持つ選ばれた人間であることにも、シャードがクエストを与えることにも、シャードが加護をもたらすことにも、全て理由がある。
 そしてもちろん、帝国とクエスターの対立構造もそうだ。対立関係から起きる葛藤とその克服こそ、一番PCの見せ場を作りやすいのだ。

 前のエントリで、ファンタジー小説における帝国について述べた。ファンタジー小説ではかなりの作品で「帝国による侵略」という構図が出てくるにも関わらず、TRPGとして明確にPCの敵となる帝国が存在する作品、いや「帝国はPCの敵である」と明記された作品は少ない。
 PC対帝国という図式を安易に設定することは、ストーリー展開をパターン化してしまうとずっと思われてきた。PCは「冒険者でなくてはならない」。「帝国のレジスタンスという立場ばかりでは自由にシナリオが作れない」…。

 しかし、必ずしもそうではないことを、NOVAが証明した。
 わかりやすい対立軸、わかりやすい悪役、わかりやすいストーリー展開はTRPGにとって害ではなく、むしろ有益なのだと。
 それによってストーリー展開、キャラクター作成の自由が奪われるという人もいる。
 しかし、歩く道のない見渡す限りの荒野に放り出されるのは、自由と言えるだろうか?
 星の見えない真空の宇宙に放り出され、どちらに進んでもよいと言われるのは自由と言えるだろうか?
  
 帝国は敵だ。冒険者の…クエスターの敵だ。事前にそうはっきりと断られた方が、何の手がかりも与えられず、いきなりダンジョンの入り口に立たされるより、遥かにロールプレイしやすい。敵がはっきりしている方がキャラクターもシナリオも作りやすい。

「帝国が敵でなければならない」「帝国と戦うシナリオでなければならない」
 ではない。
「帝国が敵でさえあれば後は好きにしていい」「帝国と戦うシナリオであれば後はご自由にどうぞ」
 なのだ。

 実際にシナリオのバリエーションが限られているかどうかは、ソードワールドアルシャードフォルテシモのシナリオ集を比べてみればわかるはずだ。

 PCに立ちはだかる強大な敵、克服すべき運命を、アルシャードはわかりやすく形にした。それが「帝国」だ。
 アルシャードのデザイナー、井上氏は帝国ソースブック「ヴァーレスライヒ」の前書きで語っている。
「真帝国は“父性”の象徴、乗り越えなければならない父親の象徴である」と。

 トーキョーNOVA・ザ・レヴォリューションから始まった“革命”。アルシャードはその革命の一つの完成形であり、FEARの「回答」なのである。