ニワトリが先かタマゴが先か?


 例えばこんな話をしよう。


「主人公は人付き合いが苦手な内気な少年で、本来はパイロットなどではなかったが、ひょんなことから巨大ロボットに乗り込むことになる。周りの大人の身勝手さや自分の未熟さを歯がゆく思いながらも、戦いの日々の中で色々な人々と出会い、自分を見つめなおす話」


 この説明から何の作品を想像するか? エヴァンゲリオン? ……しかし勘のいい人はお気づきだろうが、これだけだとガンダムにも読める。ガンダムだって穿った見方をすれば社会と付き合っていくことにわずらわしさを感じた若者が世界の命運を決する物語と言えなくもない。だけどガンダムセカイ系という人はいないよね?
 ガンダムは周囲の世界やイデオロギーの対立を描いているからエヴァとは違う? ならば、恐らく宗教に起因するゼーレの人類補完計画と、それを利用しようとするゲンドウの対立はイデオロギーの対立ではないのか?

 あるいはこんな話はどうだろう。主人公とその身近な狭い世界だけを描いていながら、主人公の選択が世界の命運を決してしまう作品がセカイ系だというならば。

 ティプトリー・ジュニアの「たった一つの冴えたやり方」はセカイ系だろうか?
 あるいは、アルフェッカ号とその乗組員を中心に描きながら、彼らの行く手に惑星国家ヴェイスの未来を左右する運命が待っていた野尻氏の「ヴェイスの盲点」はセカイ系だろうか?

 恐らく答えは両方NOという人が多いはずだ。

 なぜ「代表的作品」ですら「定義に必ずしも合っていない」なんて現象が起こるのか? セカイ系に関する考察や対談などを読んでみて感じたのは「セカイ系を定義している人たちは、まず定義があって、それに基づいて作品を分類して分析しているんじゃなく、先に分析があって、それから定義を決めているんじゃないか」ということ。
 

 はてなキーワードにはこうある。


なぜ、セカイ系といわれる作品群がこれほどまでに多くの若者に受け入れられるのかというと、若い時代に特有の心理があげられる。たいていの若者は大人と違って経験の蓄積もそれほどないため、その場の空気の読み方などといった、この世の”社会の約束事”は非常に複雑に感じ、己が社会と付き合っていくことにわずらわしさを感じる(=ウザイ)のが普通だ。そのために、社会との接点を”すっ飛ばした”セカイ系の作品は、”自分がそこに居たらどんなに心地よいだろう!”と感じるため、すんなりと入っていきやすいのである。


 この結論を導くためにセカイ系というジャンルを作ったようにしか見えないんだよね。でもこれって別に、今の若者(あるいはエヴァが流行った頃の若者)に限った話じゃないじゃん。今時の若者は、なんてフレーズ何度使われてきたことか。
 これだけ曖昧な定義をもつ「セカイ系」というキーワードだけで、具体的なタイトル名がないのでは、それが何という作品を指し、どんなことを指して「知性の衰弱」と言いたいのか判断しようがないと思うのだが。