消えた学園


 この本を読んで私が抱いた感想は、イグナクロス零号駅を読んだ時のそれと似ている。「ああ、こういう作品になっちゃったんだなぁ」という印象だ。

 富士見書房ドラゴンマガジン系列の作品の多くは、雑誌に連載されているコメディタッチの短編と、書き下ろしの長編の両方からなっている。スレイヤーズ然り、オーフェン然り、まぶらほも然り。そして、上記の作品のほとんどがそうなのだが、長編と短編で雰囲気がまったく異なる。酷い場合には登場人物の性格すら違っていることがある。
 フルメタの場合そういうブレはほとんどないのだが、雰囲気の差異はかなり激しい。賀東氏自身、長編が今の展開になってから読者に欝展開と言われていると、単行本の後書きに書いており、それに対して「登場人物は前向きにみんな頑張っていて、欝展開とは思っていない」と反論している。


 しかし問題は欝かどうかではなく、読者がその展開を望んでいるのか? ということだ。


 かつてこのブログで、賀東氏と新城氏の対談を取り上げたことがある。記号的なキャラクター萌えが先行し、ストーリーが軽視されがちな今のライトノベルに対する疑問、危機感、そういったものが切々と感じられた。今のフルメタル・パニック! の展開は、そういった今のラノベ的なものへのアンチテーゼではないか? そんな気すらする。
 昨日一昨日と取り上げた森氏の著作の中で、森氏はこう言っていた。「作家は自分の作品を、読者がこうしてほしいと望む展開にしてはいけない。読者の期待をいい意味で裏切り続けることが作家の使命だ」と。ある意味でそれは真実だと思う。
 しかし、先週まで印籠を取り出して「ひかえおろう」と言っていた黄門様が、ある日突然自ら剣で悪人を斬り出したら、それは水戸黄門と言えるのか? マスオさんが浮気して家を出て行くサザエさんのび太が道具の力を借りずジャイアンを指一本でKOするドラえもんがあるだろうか?
 フルメタル・パニックは学園ドタバタコメディとして始まった。長編も短編もスタート地点は同じだ。だから、読者がその学園ドタバタコメディとして着地点を求めてもそれは責められないと思う。