TRPGにおけるバッドエンドについて(1)

 先日ご紹介した論考についての続き。

【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1回)


 TRPGをセラピーに使うことという論考の本題については、既に業界の人も専門家からも意見が寄せられており、私がこれ以上付け加えるべきことはあまりない。ただ、私は別の部分が気になった。


 精神的に健康な児童に対してのゲーム体験は、このような「失敗経験」こそを与えるように、慎重で巧妙なストーリー展開を用意するべきです。しかし失敗は大きなストレスとなり、ゲームを「投げ出す」危険性がありますから、薬を糖衣で包むように、成功と報酬を準備する必要があります。この視点においては、「喜び」は「苦しみ」を覆い隠すための調味料として活用すべきものであり、それそのものが目的ではありません。


 TRPGとは、プレイヤーに「失敗体験」を与えるためにあるのだろうか? 私はそれには賛同できない。

 というわけで、今回のテーマは「TRPGにおけるバッドエンドについて」だ。(*1)


(*1)私は認知行動学の専門家ではないので、この論考で使われている「失敗体験」という用語が一般的な「失敗を体験すること」を意味するかどうかは知らないし、知る気もない。また「失敗を体験すること」と「セッションがバッドエンドを迎えること」は必ずイコールではない(ダイスを振って判定が失敗することだって失敗の体験だ)。以降の記述はあくまでも、一般論として「TRPGにおいてのバッドエンド」について述べたものだ。