あなたはどちらに賛同しますか?

今日はTRPGゲームファンのxenothさんから、ラビットホールドロップスへの危惧をいただきました。


TRPGセラピーの問題点

蛇足

 TRPGを支援ツールとして考えた場合の問題点についてはXenothさんが挙げているとおりである。私は専門家ではないので、滝野原さんや早瀬さんのような視点からの意見を付け加えることはできない。
 そうでない視点(つまり1ゲーマーとしての視点)からの私見を述べる。

 目標は提示されているのに。
 抑制や努力をしないと達成できない。
 これ、狙ってやっているところです。
 そこはゲームシステムの役割ではない、役割にすると良くない、と考えているのです。

 RPGが判断と選択のゲームであるなら、「失敗」の可能性を常に待っています。
 セッションは「失敗」してもいいのです。
 パーティ全員が楽しめなくてもいいのです。
 いい工夫なんか思いつかず、力押しで終わりにしちゃってもいいのです。

 でも、いつか、みんなが満足できて。
 すごくいい工夫を、その場で思いついて実現して。
 そういうセッションをできたら、すばらしいことになりそうです。
 むしろ最初から成功しちゃ、いけないのです。

 伏見氏は「すごくいい工夫」を思いついて実現したセッションを「すばらしいセッション」だと言っている。確かにそれはそうだろう。そのすばらしい工夫に関するヒントがルールブック内にまったくないのも意図的なものなのだろう。ラビットホールドロップスのシステムは(Xenothさんが指摘し、また伏見氏自身が認めるように)システムのデザインとゲームの目的が乖離しているために、そういった「工夫のないセッション」が「失敗」*1になりやすいデザインになっている。
 では、いい工夫を思いつかなかったセッションはすばらしくないセッションなのか? 実際にTRPGを遊んだ人ならわかるだろう。答えはノーだ。全てが予定調和のうちに終わっても、*2参加者全員が満足感を抱き、楽しめるすばらしいセッションは成立し得る。そもそも、セッションにおいてGMやゲームデザイナーの予想を超える「いい工夫」がプレイヤーから出てくる確率は、決して高くない。それらが皆失敗になるようでは、世のセッションは失敗だらけになってしまう。

 今、たくさんのTRPGが世に存在する。一時の流行はすぎたという人もいるが、TRPG関連書籍の発行数は一時期ほど激減してはいない。ゲーマーとしては、遊ぼうと思えば実に様々なタイトルを選択肢に挙げられる。遊ぶタイトルを選べる時代に、わざわざゲームデザイナーが「狙ってセッションを失敗させる」ために作ったゲームなど、私は遊ぼうとは思わない。

 「セッションは失敗してもいい」? 確かに。しかし「失敗する」のはいいが「無理矢理失敗させられる」のを許容できる人間は多くないだろう。GMとプレイヤーはセッションにおいて同じ権限を持っているわけではない。GMはいくらでもプレイヤーを失敗させることができるが、それではセッションも信頼関係も成り立たない。GMによって強制的に失敗させられたセッションがいかにプレイヤーの反感を買うか、経験者の方はよくわかっているはずだ。
 また、伏見氏のゲームデザインの問題点の一つに、起き得る事象にリカバリーの方法がまったく示されていないことが挙げられる。ラビットホールドロップが「セッションの失敗の可能性の高いゲーム」だとするなら、ルールブックのどこにそのことが書いてあるのか? また、セッションがいわゆる「失敗」となった時、GMはどうすべきなのか? どのような方策が取れるのか? 答えは一行も書かれていない。*3

 成功はオートマティックではありません。
 成功を支えるのには、このゲームシステムのメタ要素。
 つまり、ゲームマスターとプレイヤーの良きコミュニケーションが必須となるゲームなのです(もともとTRPGってそうでしょ?)。

 そのために、ラビットホール・ドロップスは「不親切」な面をたっぷりと残し、「失敗」を許容できるゲームとして設計されています。


 ラビットホールドロップス以外のTRPGにおいても、成功はオートマティックではない。セッション進行を補助するルールがあったとしても、ゲームマスターとプレイヤーの良きコミュニケーションは必須だ。コミュニケーションが必須であることはシステムが不親切であることの免罪符にはなり得ない。まして、最初は成功してはいけないなんてとんでもない話だ。この理屈が通ったら「セッションが失敗するのはコミュニケーションが悪かったから」ということになってしまう。
 実際にセッションをすれば、ダイス運やカード運が悪かったり巡り合わせが悪かったりして失敗することはあり得る。その意味で確かに、失敗はあってもいい。しかし失敗は決してコミュニケーション不全のせいばかりとは限らない。ましてやシステムに穴を作り、意図的にコミュニケーション不全の原因を仕込んでまでセッションを失敗させることは、その後のコミュニケーションにとって決してプラスにならない。


 最後に、どうしても私が共感できない一文を再度抜粋する。

 パーティ全員が楽しめなくてもいいのです。


 楽しめなくていいわけがない。私がTRPGを遊ぶのは楽しむためだ。卓を囲む他のプレイヤーたちも、細かい考え方の違いこそあれ、最終目的は「全員が楽しむ」ことだと私は信じている。楽しめなくてもいいんだという人と私は卓を囲みたくないし、ゲームをデザインして欲しくもない。

 TRPGは楽しむためにある。もちろん時には失敗することもあるだろう。結果的にセッションを楽しめないこともあるだろう。しかし、TRPGのシステムが何のためにあるかといえば、セッションを楽しむ可能性を上げるためにあるのだと私は信じている。例えばロールプレイで満足いかなかった人も、敵を倒す時ダイスで良い目を出して活躍できるかもしれないし、逆にダイス目の不運に見舞われても満足いく演出ができるかもしれない。TRPGのルールに様々な側面があるのはそのためだ。
 もちろん、セッションが失敗してもTRPGを楽しむことはできる。しかし、セッションが成功するのと失敗するのと、どちらがプレイヤーが楽しめる可能性が高いか? 圧倒的に前者だろう。だから私は成功を前提にシナリオを組む。セッションが失敗し、かつプレイヤー全員が楽しめるというのは、GMに非常に高い力量を要求するからだ。逆にプレイヤーから見ると、セッションが成功するだけで、マスタリングの多少のあらには目を瞑る気持ちになれる。

 だからこそ、TRPGのシステムに意図的に「失敗するような仕掛け」を組み込むなんて、TRPGの最終目的とは正反対のところにある、と私は思う。

*1:ここでいう失敗は、シナリオの目的を達成できないセッション、という意味で使われていると思われる。

*2:しかし、普通にセッションしていれば、演出から何から全てGMや他のプレイヤーの予想する通りに進むことなどあり得ないのもまた事実だ。程度の差こそあれ、全てのセッションは「GMの予想を超えている」ものだ。それが例え、同じシナリオで50回目のセッションだったとしても。

*3:むしろ、狂言回しとしてうさぴょんとやらを使うなら、この「失敗のためのリカバリ」にこそ使うべきなのではないだろうか。ご都合主義で絵本のページを逆にめくるでも、シナリオアートに落書きするでも、演出はなんでも構わないだろうが。