先日の話の続き

http://d.hatena.ne.jp/bit666/20130123


 ↑ この話の続きです。


 Rが出る前、私はごく一部の上手いGMでもなかったし、幸運に恵まれる機会も少なかったから、サイバーパンクで成功するセッションを運営するのは難しかった。しかし、どんな下手でも失敗からは学ぶもので、いくつかのテクニックを身につけた。主にNOVAで私が使っていたテクニックは二つある。


 一つは「プレイヤーの人数を絞る」ということ。具体的には二人まで絞って、互いに友人同士という設定にしてしまう。これだとキャスト毎に別行動を取られても(サイバーパンクだと特に多い)RLの負荷は最低限で済む。ただ、プレイヤーの人数を絞るのは環境によっては難しいだろうし、プレイヤー二人のセッションとか、とても他人にお勧めできるようなものではない。
 そしてもう一つが、メタルヘッドシャドウランと同じように、キャスト全員を同じ立場におく、というものだった。「キャストたちは表向き色々な社会的立場や別々の職業を持っているが『闇の仕事人』的な裏の稼業を営んでおり、そちらで依頼が来る」というパターンである。バブルガムクライシスのイメージもあったかもしれない(なぜサイバーパンクでバブルクライシスかというと、それはまたとても長いお話になるのでまた今度)。
 これは「全員冒険者で酒場にいます」というのと大して変わらない手法で、キャストたち全員に問答無用で仕事を受けさせられるというメリットはあったけれど、遠藤さんのいうような「立場の異なる者たちが偶然事件を介して出会い、協力し合い、事件を解決してまた再びそれぞれの道に戻っていく」というセッションは、この方法では再現できなかった。


 言い方を変えよう。メタルヘッドシャドウランは、ガジェットこそサイバーパンクだが、中身はファンタジーRPGと変わらなかった。その足枷をはずしたトーキョーNOVA・2ndエディションは、「不自由な自由」をもたらした。キャストもルーラーも自由に何をやってもよくなったが、プレイヤーはどうしていいかわからなくなったのだ。
 そして、この辺りの取り扱いに困っていたのは、当時私だけではなかったと思う。


 象徴的なエピソードがある。


 今となってはもはや笑い話だが、昔ログアウトという雑誌に「禍炎の塔」というリプレイが掲載された。*1このリプレイは「サイバーパンクRPGでキャストたちがなんの縛りもなく指針もなく自由に動くとどれだけ悲惨なことになるか」を如実に表すリプレイだった。全員の動きがまるでバラバラ、協力関係どころか方向性すら一致しない。このリプレイには“あの”弾王も登場するのだが、彼がそのシナリオでやったことといえば「出かけて、その辺で見つけた紙切れに落書きして持ち帰ってくるだけ」である(ちなみに紙切れも落書きもシナリオの本筋には全く関係ない)。ルーラー曰く「本当は伝説の剣聖と出会い、謎の少女を保護して帰ってくるはずだった」らしいのだが、その入り口にすら辿りつかなかったと言っていいだろう。
 占いじじいが弾王にした最初の依頼は「千早アーコロジーの天照院に向かい、お札をもらって帰ってくること」だった。これは“導入”であり、ルーラーの意図するシナリオの“最終目的”ではなかった。ところが、それは弾王のプレイヤーには伝わらなかった。また、プレイヤーもルーラーが何をしてほしいのかが伝わってこないためか、誌面上でそれと分かるほどやる気がなかった。
 言うまでもなく「禍炎の塔」はプロが書いたリプレイである。それがどうしてこんなことになってしまったかといえば、プレイヤーが何をしたらいいかわからなかったからだ。アクトトレーラーもハンドアウトもパーソナルフェイトもなく、どこまでがオープニングでいつクライマックスなのか、リソースをどこに注ぎ込めばいいのかもわからなかったから起きた事故だ。

 正直「禍炎の塔」を読んだ時は、NOVAを見捨てる寸前までいった。今にして思えば、これも「R」で革命が起きるきっかけ、糧の一つになったのだと考えれば納得はいく。だが、当時はまさに「体調を崩すほど面白くない!」という感想しか抱けなかった。事故を起こしたセッションの9割9分は、ルーラーにとってももプレイヤーにとっても、そして端から見ている第三者にとっても、決して面白いものではない。
 もちろん、TRPGにおいてセッションの成功が担保されている必要はない。プレイヤーの選択によってあるいはダイス目の不運によって、シナリオの結果が失敗に終わることはあり得なくもない。しかし、その原因が「ルーラーとプレイヤーの意思疎通の齟齬による事故」だった場合、これを笑い飛ばすことはできない。

 ここで、私の拙い筆よりも分かりやすく語っている作品がある。アルシャードffサプリメント「ウィンカスター・フォーチュン・サービス」の前書きである。

 ある日私は東京の池袋にある居酒屋で、偶然古い知人に出くわした。その名を書けばTRPGの古いファンであれば、恐らく知っているであろう、そういう人物だ。
 TRPG業界からは離れて久しいというその人物は、それでもときおリゲームを買ってくれているらしい。過分とも思えるほめ言葉をもらい恐縮することしきりであった。
 ただ、彼が言うには最近のゲームには寂しさを感じるという。曰く「事故が起きない」、「予定調和」「事故を楽しんでこそのTRPG」……。
 自分はその人物が「最近の」といっているゲームを実際には遊んでいないことを確認した上で、ふたつの誤解を訂正した。ひとつは最近のであろうが昔のであろうが、(残念ながら)事故の起きないTRPGはいまだに存在しないこと。
 もうひとつは“事故”とはトラブルやアクシデントのことであり、そこに楽しみの要素はないということだ。
 例えばシナリオがGMの想像と違う方向にねじ曲がったり、PCがあっけなく死んでしまったり、逆にボスとなる予定のNPCがシナリオの冒頭で死んでしまうのは事故ではない。ルール上起こり得ることであり、ハプニングやサプライズと呼ぶべきものである。
 TRPGのデザインとはサプライズを残しながらトラブルやアクシデントを極力避けるものであり、「事故」と楽しみのための「驚き」を混同するのは極めて危険である。


 まったくもって賛成だ。
「今回のシナリオがこんなシナリオだとは知らなかった。私はそういうシナリオが嫌いなのでもう帰る」と言ってプレイヤーがセッション中に席を立って帰ってしまったとしたら、そんな「事故」をどうやって楽しめというのか。
 ルーラーが何をさせたいのかわからない、プレイヤーが何をしたらいいのかわからない、結果として会場の制限時間があるにも関わらず時間内に終われない。これは単なるハプニングではない。「事故」だ。


 この事故を、ルーラーとプレイヤーの共有認識を作ることで、システムレベルでできるだけ防ごうというのが「R」の目指したことだ。「R」以前のゲームは、それをシステムではなく個人のノウハウに頼っていた(これは、やにおさんがまとめで言及していることでもある)。不幸な行き違いをできるだけ減らす。それが遠藤さんの、そしてFEARの目指している方向でもある。


 長くなったけどまだ続きます。


アルシャードフォルティッシモサプリメント ウィンカスター・フォーチュンサービス

アルシャードフォルティッシモサプリメント ウィンカスター・フォーチュンサービス

*1:もちろん今では入手困難だが、クロニクルでは触れられている。このリプレイを黒歴史扱いにしなかったのは、悪評高かったNOVAのメイルゲームの結果を黙殺しなかったのと同じくらいの英断だと思う。