一本道と箱庭

TRPGにおける『ナラティブ』と『箱庭シナリオ』


 うーん。話の流れがなんとなく「コンピュータゲームがストーリー重視からナラティブ重視に変わりつつあるのでTRPGも一本道から箱庭形式にしよう」みたいな流れに感じるんだけど(箱庭シナリオって言葉もかなり唐突に出てくるし)、そもそもリンク元のCEDECの議論でも「GTAは自由すぎて世界に思い入れができないのでナラティブじゃない」と言ってるんで、そのこと自体が正しいかどうかはともかくとしても、必ずしも箱庭シナリオがいい、って話にはならないと思うんだけど。
 もちろん正しく理解してる人もいる。

TRPGの自由度に幻想を持ってる人の思い込みがちな間違いは、「PLが自由に行動する」のと
「セッションが楽しめる」や「物語が上手い具合に収束する」、「シナリオの問題が解決する」
といった事象が同時に成立する(もしくは成立しなければならない)と思っていることだね。

「自由度が大きくなればなるほど、後者は成立しにくくなる」という簡単な事実に気づいていない、
もしくは気づかないふりをして目を瞑っている人が多いこと。

一本道か自由度か、でよく両者一歩も譲らずみたいな話になっとるけど
たとえば修学旅行で京都なり沖縄なりに連れて行かれたとして
「2泊3日計60時間の行程は完璧に用意した。一歩の寄り道も許さん」と
「さあついたぞ。なにも予定はないので帰るまで各自好きに遊んで来い」とじゃ
どっちがマシかって議論以前にどっちもイヤだろう

マスターの誘導が巧みだと、プレイヤーにはシナリオが一本道か自由度かの区別がつかない。


 この辺は非常に同意できる。
 特に一番最後の「マスターの誘導が巧み」っていうのには「巧みに誘導してるんだけどそれと気付かせないタイプ」と「マジシャンズセレクトタイプ」の二種類がいると考えている。
 前者は、例えば右の道と左の道があるという状況で、状況描写と表現力を活用してほとんどのプレイヤーが右を選択するように誘導すること。といっても、右の道だけ描写を細かくすればプレイヤーは露骨な誘導と感じるだろうし、GMの力量が必要になる。
 マジシャンズセレクトタイプのマスターは、右の道を選んでも左の道を選んでも「倒れている女性がいる」でイベントが進むような感じ。もちろんここまで単純だと「右でも左でも結果は一緒なんじゃ?」と気付かれるが、これを「雪が降って山奥の村に閉じ込められた。村を出るにはカヌーを作って川を下るか、案内人を雇って山の抜け道を進むしかない」で、「森に魔物が出るのでカヌーを作るのに必要な木材が集められない」or「案内人の娘が昨日から姿が見えなくて案内どころではない、実は森には魔物が──」とやると、「見た目上の選択肢」を担保できる。
 箱庭型のマスターと言われると「君たちは村に閉じ込められた。さてどうする?」以外何も言わないイメージなんだけど、中世の山奥で暮らした経験のあるマスターやプレイヤーがいるわけではないし、プレイヤーは途方に暮れることの方が多いんじゃないだろうか。仮に何らかの行動を提示されたとしても、それが適切かどうかという裏付けをマスターに求めるのも大変だ。


 結局、発生するイベントすら決定していない完全なアドリブタイプの箱庭型シナリオは、GTAじゃないけどわかりやすくて単純な展開になるか、非常に人を選ぶかどちらかだ。前にも書いたかもしれないが、少なくとも私は、コンベンションで「自分はアドリブマスターである」と自己紹介するGMでまともな人に出会ったことがない。今箱庭型で上手くやっているキャンペーンを否定するつもりは毛頭ないが、それはなかなか一般化しづらいのではないかと思うのだ。