サイバーパンクの憂鬱(前編)


 先日ご紹介した「クローム・メモリー」について先輩と話していて思ったことなどをつれづれと。


 ずっと前に、世代によって「スタンダードなファンタジー」という言葉から想像する世界観に大きな隔たりがあるというエントリを書いたことがあるけれど、それ以上に受難のジャンルがサイバーパンクというジャンルだろう(NOVAがサイバーパンクかどうかという話は置いておくとして)。
 そもそも、今はSF全体が受難の時代だ──と書くと、関係各所から反論が起きそうなのだけれど。SFの中のさらに細かいジャンルで挙げていくと、例えばスペースオペラサイバーパンクといった個々のジャンルで、代表的な新しい作品がなかなか生まれてこない。そもそも「ライトノベル」という、若者向けの需要に応える出版分野で、スペースオペラサイバーパンクに分類される作品が指折り数えるほどしか出版されていないのだ。前にも取り上げたが、多いのは「ファンタジー」であり「現代もの」である。
 もちろん、広い意味で言えば今流行のオンラインゲーム小説、アクセルワールドソードアートオンライン、ログホライゾンなども「近未来SF」なのだろうけれど「オンラインゲーム上で作品の世界観を実現するための科学技術の進歩」に特化しすぎていて「未来世界を描いた作品」という印象は、私の主観だけれどもあんまりない。そもそもそれらの作品における「現実世界」の描写がそれほど多くないというのもある。
 ファンタジーや現代ものの作品なら、具体的な作品名を挙げれば「ああ、ああいう世界ね」「ああいう設定ね」とわかる。そういう作品が、今「サイバーパンク」というジャンルにおいてどれだけ存在するだろうか? という話である。


 真っ先に挙がるのは、やはり「攻殻機動隊」になるのだろうか。それももう23年前の作品である。シリーズそのものは今も続いているし、例えば冒頭挙げた「紅殻のパンドラ」も世界観を共通する作品だけれども、23年間の技術の進歩を作品内に反映しようとしているのは見て取れる。
 私の狭い知識の範囲だと、後は冲方さんのシュピーゲルシリーズやマルドゥック・スクランブルだろうか。あと一つ、流行かつ話題の作品があるのだが、これは訳あって後述する。


 何故、かつてサイバーパンクと呼ばれていたジャンルの後継作品が少ないのか、これは、答えははっきりしている。ウィキペディアにすら書かれてしまっているほどだ。


サイバーパンク

一方、1990年代に入りインターネットの商用利用解禁や、ITバブルによるパーソナルコンピュータや携帯電話などの普及によってこれらが身近なものとなり陳腐化すると、サイバーパンク・ムーブメントの存在感や刺激は相対的に後退し、沈静化する。しかしこれは言い換えれば、90年代以降は、サイバーパンクの着想が大衆的に広く浸透し、あえてジャンル化する意義が見いだせないほど当たり前なものになった時代でもあるということである。さらにインターネットの普及、ユビキタス社会の進展により、サイバーパンク的な感覚は着実に現実に浸透しつつある。


 前にも書いたが、サイバーパンク小説の書かれた30年前の人間に「30年後には、女子高生ですら手のひらサイズのコンピュータと電話を融合した端末を持ち歩き、ネットに常時接続して全世界に情報を発信できる」「普通の会社員が、青い髪の電脳アイドルに自作の曲を歌わせる動画をネットにアップしたら、2日で10万回も再生される」そんな時代が来ると言ったら、どれだけの人間が信じただろう? サイバーパンクは未来ではなく、現実になってしまったのだ。
 要するに、サイバーパンクスペースオペラが“古臭く”なった時代に、最新鋭の“エッジな”未来のカリカチュアを見せる作品だったのに、そのサイバーパンクすらも“古臭く”なってしまい、しかもそれに代わる“最新鋭の未来”が見えてこない、というのが現状だ。テクノロジーが進化しすぎたといえるかも知れない。


 さて、私が意図的に後述するといったサイバーパンク作品。それは「ニンジャスレイヤー」である。
 なぜ分けたのか。ニンジャスレイヤーは「最新鋭の未来を見せる作品」ではなく「意図的に1980年代のサイバーパンク作品の世界観を踏襲した作品」だからである。(続く)