大人の経験値……?


 A連打で金を払わずに外に出てるのだから、普通に殴り合いで経験値積んだとかそんな感じじゃなかろうか(笑)。

中止か~

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 「そんなところまで余波を受けるのか」という思いもありつつ、オンライン開催の需要の高さや代替のし易さでいったら屈指のイベントだとも思うので、オンライン開催に替えられるなら、それに越したことはないんだろうな。

昨日の続き


 さて今日は昨日の続き、ペルソナ5スクランブルのストーリーの感想を書いていこう。言うまでもなく完全にネタバレアリアリなので、折り畳んでおく。


(この先はペルソナ5スクランブルのエンディングを含む重大なネタバレがあります!)














・前にも書いたけど、本作は怪盗団とそのメンバーの「エンディングのその後」を描いた完全新作だ。そう考えると、賛否両論あったペルソナ5ロイヤルでプレイヤーが求めていたものは、実は本作にこそあったのではないだろうか。


・本編のパレスに相当する本作の「ジェイル」。1つ目のジェイルの主(本作では王(キング))がどう見ても「バーチャルユーチューバー」、2つ目のジェイルの王がどう見ても「なろう作家」と、本編以上に攻めすぎてて吹いた(笑)。


・1つ目のジェイルのアリスが杏に縁のあるキャラ、2つ目のジェイルの安吾が祐介に縁のあるキャラ、3つ目のジェイルのマリコが春に縁のあるキャラだったので、このまま全キャラ縁のあるキャラが出てくるのかと思いきや、後のジェイルは怪盗団メンバーとはそんなに繋がりはなかった(笑)。


・今回は最初のジェイルが現代風、次のジェイルが中世風ということで、本編とは逆だったけれども、雰囲気はよく出ていた。また、ジェイルの外の普通の街についても、本編で感じたのと同様、マップはそれほど広くないのに「これは渋谷」「これは横浜」「これは東京タワー」という特徴がよく表現されているのには感服した。スクランブル交差点などは確かにどう見ても渋谷のスクランブル交差点に見える。


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 今回は特に、町がそのままジェイルとなっているため、元ネタになる街を知っているほどニヤリとできるのではないだろうか。


・今作は本編以上に怪盗団メンバーの「自分の身を守るため」という側面は薄く、ジェイルの主もまた、彼らなりの事情を持つ「可哀そうな敵役」だ。本当に「ラスボスそのもの」以外、ほぼすべての敵に同情できる事情があるように描写されている。すると本編の時にも話題になった「改心と洗脳は何が違うのか」という命題が表に出ざるを得ない。今回の敵は「改心」を悪用する敵であり、怪盗団にはっきりとそれを突き付けてくる。「お前たちの改心と我々の改心と、何が違うのか」と。
 怪盗団はそれに対する回答を口にするものの、すべてのプレイヤーが納得できるものかどうかは微妙だと思う。
 例えば、怪盗団のメンバーは「自分たちは(お前たちと違って)他者の自由を奪わない」と口にする。しかしこれは明らかに正しくない。怪盗団は鴨志田から「校内で横暴にふるまう自由」を奪い、班目から「盗作する自由」を奪い、金城から「弱者を食い物にする自由」を奪った。「自由」と「善悪」は別の命題だ。そして、善悪を問おうとすれば「怪盗団の正義とは何か」を語らなければならなくなる。また、怪盗団は「自分たちには間違えても正してくれる仲間がいる」というが「ならば敵も徒党を組んでいれば正義なのか?」という話になる。
 物語全体と怪盗団の言葉の端々から類推すると「怪盗団のメンバーは『他者の自由を束縛すること』を自由とは認めていない。その意味で『すべての人間が他者から自由を奪われない状態を目指して活動している』」と読み取れる。これを作中ではっきり言ってくれれば、それはそれで一つの主張として認められるのだけど、あくまでも「言動から総合的に判断するとこう考えているのではないか」と推測できるだけだ。
 もっとも、この命題自体が非常に難しい問題を孕んでおり、そうそう一朝一夕に答えの出るものではないのは確かだ。プレイヤーたちが本編をプレイして抱いた疑問について、本作が答えを出したとは思わないけれど、制作陣がプレイヤーたちの疑問をちゃんと把握していることは理解できた。


・ここまで書いて(もし未プレイの人がいたら)「あれ? 今作のストーリーは微妙?」と思ったかもしれないが、そんなことはない。今作のストーリーで、私が一番「これはやられた!」と思ったのは、敵ではなく仲間の物語だ。


・<希望>ことソフィア。「自分が何者か知らず、他者からも何者なのかわからない」「彼女の自分探しによって物語が展開する」存在だ。彼女については敵である「一ノ瀬」と合わせて語る必要があるだろう。一ノ瀬が真意を語る「深淵のジェイル」において、ソフィアか一ノ瀬か、どちらかは絶対命を落とすのだろうと思ったのだが、予想が外れた。
 「P5のモナの立ち位置にあると思わせつつ、実はP4のクマと同じ、敵側に縁のある存在」という書き方をすると、実は次に語る人物と、意図的に重複するように造形されたキャラであることがわかる。


・<神官>こと長谷川善吉(ウルフ)。今作で最も語りたいのは彼についてだ。今作はウルフの物語だ。

「警察という立場で、怪盗団を捕らえる代わりに取引を申し出てくる怪しげな人物」。こう描写されて、素直に「こいつは裏切るな」と思ったプレイヤーは少ないのではないだろうか。何故なら、あまりにも本編の明智と被るように設定されているからだ。「こいつは明智と似たようなキャラに見せて、実は違うキャラなんだろうな」と、ここまでは私も読めた。しかし、ここから先の変化球は読めなかった。
 彼にスポットライトが当たる「京都のジェイル」において明かされる事実。「妻を轢き逃げ事故で失い、捜査の合間に妻を殺した犯人を捜していた」「一人娘を育てている」……。


 堂島だろ、これ!


 そう、明智に似ているというのは予想通りフェイクで、善吉は「堂島遼太郎のセルフオマージュ」なのだ。しかし、相違点もある。その相違点こそが彼の物語の核心にある。堂島の場合、妻を殺した犯人は「見つかっていない」。しかし善吉の場合は「見つかったが手が出せなかった」。そして、娘である茜は真犯人を目撃している。ここは双葉が母親の死を見た場面を彷彿とさせる。
 加えて、茜は菜々子より年上だ。P4の頃に冗談交じりに「菜々子も反抗期だったらこんなに可愛くなかっただろうな」などと語られていたが、まさにそれ。父親に反抗し、否定し、見たこともない怪盗団に憧れる。父親である善吉は娘を守りたいと切望しているが、娘はそれを理解していない。
 プレイヤーの脳裏には、どうしても菜々子が浮かぶだろう。「もし菜々子が母親を殺した犯人を見ていたら」「もし菜々子が反抗期だったら」……。


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 そして、ここがさすがアトラスだと思わせるのが、京都ジェイルでの「善吉の潜入ミッション」の演出である。「ジェイルの存在は認知しているが、ペルソナが覚醒していない」善吉は、カモシダパレス冒頭の竜司や、オクムラパレス冒頭の春と同様に無力だ。それを単にムービーで見せるのではなく、プレイヤーに操作させる。


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 物陰から物陰へと必死によたよた歩き、敵に見つかれば即死。下手なプレイヤーほど「マジ使えねえなこのオッサン!」と思ったことだろう。


 かーらーのー、最強ペルソナ「バルジャン」覚醒である。


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 歯痒い思いをしたプレイヤーこそ、その落差に呆気にとられる。少なくとも私はそうだった。ヒートライザやランダマイザといった最強の支援魔法(そう、「支援」魔法だ)を使いこなし、万能魔法を使い、狂化を操る最強クラスのキャラクター。その姿に、私は夜道で事故を起こした堂島の姿を幻視した。

 ペルソナ4のクライマックス、人事不省に陥った菜々子を助け、真犯人を捕らえようと車を走らせた堂島。彼だって戦いたかったはずだ。娘を守るために。事件の真相に迫るために。主人公を糾弾したのも焦りの表れだ。最後は主人公たちに託すしかなかった。さぞ歯痒かったことだろう。
「もし堂島がペルソナ能力に目覚めていたら」「もし堂島が主人公とともに戦う道を選べていたら」……。それがウルフだ。
 ペルソナ3以降の主役側のペルソナ使いで「他人のために」ペルソナ能力に目覚めた人間は他にいない。ペルソナ能力に目覚めることは、弱い自分を克服することであり、理不尽な大人に抗うことだ。しかし、ただ一人ウルフだけは、娘という他人のためにペルソナ能力に目覚めた。

 ペルソナ、ジャン・バルジャンは些細な罪で途方もない期間の忍従を迫られた男。力を手に入れても、それを愛する者の娘コゼットのために使い、しかしコゼットと若い詩人の未来を、一歩引いたところから見守ることを選んだ男。
 善吉もまた、要所要所で怪盗団の仲間の邪魔をしない。彼らの思い出作りに割り込んだりしない。共に戦いつつ、一歩引いて見守っている。

 つまり長谷川善吉は「P5の明智の立ち位置にいると見せかけて、実はP4の堂島と同じ、主人公を見守る存在」である。エンディングの「取引はここで終わりだ」に、P4の最後、駅で主人公と別れる堂島を想起して涙したのは私だけではないと信じたい。欲を言えばあそこで茜にも登場して憎まれ口の一つも叩いてほしかった……。


 もう一度書く。P5Sはウルフという男が、娘を守るために戦えなかったもう一人の男に代わって、娘を守るために戦う物語だ。だから、前述のような多少の齟齬があっても、私はこの物語を評価する。若者が間違えるのは当たり前だ。その主張に粗があるのも当然だ。これはそんな彼らによって救われ、それゆえに彼らを守り助け、見守る男の物語なのだ。