貨幣と経済の話(続き)

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 この間の続きの話である。

 結論を最初に書くと、TRPGにおいて経済の領域に踏み込まない理由は、プレイアビリティが低下するためだと私は思っている。わかりやすい例として、CD&Dの「貨幣」を取り上げよう。



 貨幣について一番身近なのは「両替」だろう。もっとも、これすら意味があるゲームは少ない。ただ、CD&Dにおいてはエンカンブランスというパラメータがあり、これが一定を超えると移動速度が遅くなり、最後には身動きが取れなくなるというルールがある。過去にエンカンブランスのことに書いた時は、あたかもそれが「重量」を指すかのような書き方をしたが、実際にはエンカンブランスは必ずしも重量を意味しない。それは「持ち運びやすさ」を指す抽象的なパラメータである。例えば「軽いが嵩張る羽毛布団」のようなものは、重量は軽いがエンカンブランスは大きく「比重は重くても体積が小さい金貨」のようなものは、重量のわりにエンカンブランスは小さい。
 エンカンブランスの単位は「cn」。これ自体が「coin」を基準にした単位である。「コイン一枚の持ち運びやすさ」が「1cn」だ。どの種類のコインでも同じである。CD&Dの世界では、1白金貨=5金貨=50銀貨=500銅貨。つまり、エンカンブランスの上限が5000だったとしたら、銅貨で5000枚を持っても、それには白金貨10枚分の価値しかないことになる。
 言い換えれば、D&Dにおける「両替」の最大の意味は、荷物を軽くすることである。白金貨ですら持ち運ぶのが辛いほどの財産になったら、魔法の武具に変えたり宝石に変えたりすることでエンカンブランスを減らす(なお、宝石も1cnである)。しかし、武具の購入はともかく両替、そして宝石の購入には考えなければならない点がある。手数料の存在だ。ルールブックには両替に際しての手数料の割合は明記されていない。貨幣の両替は手数料を取らず、宝石の購入には実質的な手数料を取る(買取価格と販売価格に差があれば、それは実質手数料だ)DMが多かったように記憶している。
 ここで兌換レートについて不思議に思った人もいるかもしれない。実は、CD&Dの世界では兌換レートはルールに明記されていて、変動しない。白金貨1枚の価値は、いついかなる時、どんな場合でも銅貨500枚の価値がある。CD&Dの世界では物価も変動しないため、手に入れた財貨の価値は変わらないことになる。
 これは、ある意味当然である。一つには冒頭に述べたプレイアビリティの問題だ。兌換レートや物価を常に変動させ続けるのは、TRPGにおいてはプレイアビリティが非常に低くなる。これらの表を常に参照しないと雑貨品の買物すらできなくなるからだ。
 また、もう一つは「CD&Dにおいては入手した財宝が経験値になる」というルールのためだ。兌換レートを考えてしまうと、同じ財宝を手に入れても情勢によって入手できる経験点が違うことになってしまい公平性を欠く。



 だから、CD&Dにおいては兌換レートは常に同じで、物価も同じだ。さらにいうと、初期の翻訳グループが出版していたプレイガイドには「D&Dにおける貨幣は、含有する貴金属の価値しか見ない」と書かれていた。これもかなり重要なルールだ。要は、金貨の表に誰の顔が彫られていようが、額面が幾らと書かれていようが、白金貨1枚にはプラチナ1cn分の価値かあり、鋳潰して延べ棒にしようがどうしようが価値は変動しないということだ*1。これでプレイヤーとしては「貨幣の損傷(変形)」を気にする必要がなくなる。ドラゴンの炎で歪もうが何をしようが、削り取られたり強酸で溶けたりしない限り、価値は減らない。
 逆に言えば、時の権力者が財政破綻を何とかしようと貨幣の鋳造割合をいじっても、プレイヤー視点では意味がないことになる。貨幣の価値が国家の裏付けで上下しないためだ。例えば「純金だった○○皇帝貨幣を、金と銀の合金に変えた」とした場合、貨幣の種類が金貨からエレクトラム貨(金と銀の合金貨)に変わって価値が下がるのみだ。
 数少ない両替という概念が存在するCD&Dの貨幣一つをとってもこの状況である。冒頭に書いたとおり、プレイアビリティを削がないために様々な制約が課せられるTRPGにおいて、変動経済の要素を本格的に持ち込むのは難しい。

最後に一つだけ。

 水野氏が訴えたいのと全く違う視点からであれば、私は最初の発言者の意見を部分的に支持したい。それは、水野氏の(特に後期の作品では)一般人の視点が描かれない傾向にある、という点だ。



 水野氏はTRPG畑から出た小説家であるせいか、TRPGにおける「PCの目につきやすい視点」に描写が偏る傾向にある。リウイが一番わかりやすいが、王子であるリウイとその仲間と知り合い、相手は地位の高い人、という視点でしか物事が語られない。ロードスも同じで、パーンやディードリットが邪神戦争や英雄戦争で窮状にある普通の人々の状況を知るというシーンがほぼないに等しい。魔竜シューティングスターの被害者くらいしか印象に残っていない。ドラゴンランスの「城砦の赤竜」の描写とは対照的である。
 あるいは、ライデンは商人の町という設定なのに、その商人すら数えるほどしか登場しない。リウイに登場するアイラにしても、どこで何をしているのかさっぱり描写されない。「一般人や商人の生活感が感じられない、だから経済にリアリティが感じられない」という指摘であれば、さもありなんとうなずくところである。

琴線に触れるパターン


 基本的にはギャグテイストのほのぼの系マンガなんだけど、一話だけ琴線に触れるエピソードがあった。
 水族館の中しか知らないペンギン(ゲストキャラ)が、ふとしたことから外の世界を垣間見て──

 そうか こっちが本当の『外』だ
 何も知らないおれのことを 笑っていたのかな
 あの絵描きも あの鳥も
 くそ くそ くそっ……!!


 前に東武動物公園に行ってオオワシを見ていた時の話をしたけれど、私はこういう「動物園の檻に入れられて自由に外を飛べない鳥」の話に弱いのだ。

*1:ただし、ガゼッタには「この国の金貨は誰の顔が彫られ何金貨と呼ばれている」等の記載があった。