今日のエントリは冒頭から結構辛口な内容なので、折り畳むことにする。
冒頭の一連のツイートを読むだけで、「何故SFが衰退したのか」がこれ以上ないほどよくわかるという……。特に、相手の反論に対して再反論せずに「お前らは分かってない、これを読め」と言い出すあたりは、あまりにもテンプレートすぎて笑ってしまった。
言いたいことはコメント欄で半分ほど言われてしまっているので、今日のエントリはもう半分の話である。
まず、本題に入る前に、今日これから書くのは、あくまでも私個人の意見であって、わたし自身の経験と、とある人物の伝記以外、客観的なデータの裏付けはないということ。そして、本文中の「ファンタジー」というのは基本的に西欧風ファンタジーを指し、SFはスペースオペラを中心としたハードSFを指している。
また、本エントリの内容は、引用した伝記の本人、もしくは伝記作家、あるいは翻訳者の思想を反映したものではなく、それに触発された私個人の妄想であるということは予めお断りしておきたい。あと、本文中は敬称略とする。
1974年のテレビガイド
1974年のテレビガイドを見れば、そこに宇宙大作戦はあった。ファンタジーはなかった。しかるに今はどうか。全然違うのである。
(298ページより)
今の状況からは信じがたいかもしれないが、私がTRPGを始めた頃、TRPGに近い思われるメディアでは、ファンタジーよりもSFの方が主流だった。映画館ではかの有名なスターウォーズがかかっていて、テレビアニメでは毎週ダーティペアが放映されていた。「ガンダムはSFであるかどうか」というような有名な論議があるが、論議されるほどにはSFと親和性の高いジャンルだったと言えるだろう。
これに対して、ファンタジーを題材にした作品は数えるほどしかなかった。だからこそ、当時のファンは数少ない作品を血眼になって探した。しかし、今やその状況は大きく変わっている。
では、その分水嶺は一体どこにあったのか? 私は「SFにはゲイリー・ガイギャックスがおらず、ダンジョンズアンドドラゴンズが生まれなかったから」だと半分本気で思っている。
念のためにいうと、SFを題材とした「ゲーム」がなかったわけではない。コンピューターゲームでも、有名なインベーダーゲームは宇宙からの侵略の話だし、ナムコが出したのもドルアーガよりもゼビウスの方が先だった。
しかし、ゲームの主流がシューティングゲームやシミュレーションゲームからRPGへと変わったのと同時に、ジャンルもSFからファンタジーが移り変わっていった。SFというジャンルは、RPGとの相性が良くなかったのだ。
4人パーティという功績
すばらしいことを思いつくものは多い。だがすばらしい思いつきを、実現のための具体的展望と組み合わせられる者は少ない。ゲイリーはそれをやった。彼の作品はプレイヤー一人一人の創造性を刺激し、奨励するものであり、他の多くの人にも彼と同じことを──バラバラのパーツを組み合わせることを──考えさせてできるようにさせた。
(287ページ)
ゲイリーは、ダンジョンズ&ドラゴンズというTRPGを作るにあたり、ファンタジーの「物語のアーキタイプ」を作った。
「戦士、僧侶、魔法使い、盗賊という4人の仲間が地下迷宮へ戻っていき、力を合わせてドラゴンを倒し、姫を助けて財宝を持ち帰る」。ゲイリーは指輪物語を嫌っていたと言われるが(同書272ページ)、実はこの物語のアーキタイプは、指輪物語やゲド戦記、ナルニア国物語やエターナル・チャンピオンといった、それ以前のファンタジーの物語の典型とは必ずしも一致しない。コナン・ザ・グレートが最もこれに近いかもしれない。古今東西の様々なファンタジー作品の要素を持ってきてはいるものの、「主人公の仲間たちの組み合わせに一定のパターンを作り、物語のアーキタイプを生み出した」のはダンジョンズアンドドラゴンズだと言っていいと思う。
もちろん、SFのストーリーにもアーキタイプはある。例えば「借金をして高額な宇宙線を買い、その借金を返すために輸送の仕事を受ける」とか、あるいは「訪れた先で異星人などの異文化に出会い、コミュニケーションを取る」とか。「惑星カレスの魔女」とか、それこそ冒頭のツイート主のクレギオンなどはこの類型に近いストーリーだ。
しかし、これはRPGというジャンルとは相性が悪い。前に「RPGに戦闘が必須かどうか」というエントリを書いたが、ここに挙げたSFのストーリーのアーキタイプは、基本的に「主人公一人にしか関わりのないこと」である。チェスの天才少女一人がいれば終わってしまう話には「仲間と役割分担して力を合わせる」という要素がなく、一人のGMに複数のプレイヤー、というTRPGのプレイスタイルと合致しない。
親のそのまた親
「ゲイリー・ガイギャックスがファンタジーというジャンルを生み出した」とは言うまい。けれども、彼がファンタジーを有名にした──彼特有の手法、受容者を増やすだけではなく発信者と革新者をも増やす手法──で有名にしたのは間違いない。
(297ページ)
ファイナルファンタジーは、D&D独自のモンスターであるビホルダーを登場させたことからも分かるように、D&Dの資料を元に作られている。ドラゴンクエストの堀井雄二氏は、ウィザードリィのヘビープレイヤーとして知られており、そのウィザードリィは、コンピューターゲームでD&Dを再現するために生まれたゲームだ。つまり、子引き孫引きという形だったとしても、D&Dを参照して作られたゲームである。
これに対して、トラベラーを参照して作られたSFのコンピュータRPGというのは、ほぼ聞かない。細かいことだが、トラベラーはスキルシステム製のゲームである。従ってTRPGとして見た時に、仲間同士で役割分担するのはルールをかなり読み込まないと難しい。これに対してクラスシステム制のD&Dは、ルールブックを一読すれば、基本の4クラスでパーティーを組むのが推奨されていることは明らかである。
トラベラーは様々なSF作品を再現できるように作られているが、それゆえにSFTRPGとして「主人公たちが協力し合う」形のアーキタイプを作り得なかった。同時にストーリー作成にもガイドラインがなかったため、後続のRPGは先人を模倣して物語を作ることができなかった。
こういう話をすると「いや、SFが衰退したのはSFファンが排他的、あるいは保守的だからだ」とか、そういった理由を挙げる人もいるかもしれない。確かにそういう要素もあるかもしれないが、ではファンタジーにそういう言説が存在しないかというと、リプレイで学歴自慢をしたり、「中世ヨーロッパは不潔だったんだからファンタジーも不潔であるべき」というような言説をしたり、D&Dのシナリオモジュールの話でいきなりフランス文学の話を持ち出したり、というような人もいないわけではない。
ただ、ファンタジーというジャンルにとっては幸いなことに、それらの言説は主流にならなかった。ゲイリーの伝記にはこうある。
RPGは「ファンがファンタジー小説やファンタジー文化と関わりあう新しい方法を生み出した」。いまや誰もが物語に参加することができ、誰もがファンタジー世界の背景や人物に関する空白を埋めようと試みることができる。ここでもまた、RPGが、無数の人々が物語に貢献するための土台になったのである。
(299ページ)
人間中心ではなかった
冒頭のつぶやきの中で、意見そのものはとても賛成できないにしても、1点だけ「このフレーズには真実が含まれているかもしれない」と思った部分がある。それは「魔法(ファンタジー)は人間中心だ」と書かれている部分である。ただしそれはもちろん、発言者の意図とは正反対の意味で、だ。*1
言い換えるなら、SFは人間に目を向けてこなかったのだ。特にゲームジャンルにおいては。先ほど「ドルアーガよりゼビウスの方が先に生まれたゲームだ」と言ったが、主人公はソルバルウという宇宙船である。銀河英雄伝説のシミュレーションゲームにしても、ユニットの単位は艦隊であって、それに座乗する登場人物たちではない。
象徴的な例が「エイジ・オブ・ギャラクシー」というスペースオペラを題材にしたTRPGにある。この作品が出た当時、艦これが流行っていたということもあるが、このゲームはなんと、全てのPCが自分専用の宇宙艇を装備として持ち歩き、瞬時に召喚して乗艦できるようになっている。このジャンルのTRPGを作ろうと思った時、どうしても人間ではなく宇宙艇を単位にせざるを得なくなったので、こういった苦肉の策が取られたのだろう。
しかし、ファンタジーにおける主体はあくまでも人間である。宇宙船より人間の方が感情移入しやすいに決まっている。
