忘れてたわけじゃないよ

 今日は、昨日のエントリの冒頭にある「私が聖杯問答のエピソードが好きな理由」について書こうと思う。割と身内向けの話なので、興味のない人は読み飛ばしてほしい。


 実は、前にも書いた「天羅万象」というTRPGで、他のプレイヤーと聖杯問答によく似たやり取りをしたことがある。
 いや、それは「やり取り」なんて生易しいものではなくて、1時間近く議論したような気がする。*1

 簡単に状況を説明すると、私が「戦闘用傀儡」というキャラクターで、PC①的な立場のサムライの側近という役。議論の相手だったのはそのサムライの軍師役を務めていた外法師だった。
 そのサムライは剣力に秀で、*2人望がある人物という設定だった。キャンペーンの流れ上、故国は戦に次ぐ戦で千々に乱れており、能力のないものが上に立っては戦に敗れ国力が疲弊するという状況の繰り返しとなっていた。そのため、私のPCはなんとしてもそのPCを絶対に君主にしたい、と考えていた。
 そこに異を唱えたのが外法師だった。彼は「君主とは『何が何でも君主になりたいという欲望を持つ人間』がなるべきであり、人望や能力は二の次、清廉さや義務感などはむしろ不要」という主張だった(サムライのPCは、どちらかというと窮屈な思いをする「君主」にはなりたがっていなかった)。
 つまり、聖杯問答になぞらえると私がセイバーに似た考え方で、外法師はライダーに近い(自分自身が王であるか、他人を王にしようとしているかという違いはあれど)。

 Fate/Zeroの問答がそうであったように、私のPCも論戦の末に論破された。*3なので、極めて個人的な事情から、セイバーには非常に共感するのだ。

*1:それでもセッションそのものが成功するところが天羅というゲームの凄いところであり、また暴走すると取り返しがつかないところでもある。

*2:白兵戦闘“特級”だったといえば、当時のシステムをご存知の人ならその強さがわかるはず。

*3:余談であるが、私は天羅万象をプレイするにあたり、この手の「間違った思い込みをしている」PCをよくロールした。なぜかというと、このゲームは「常に因縁を変化/精神面を成長させ続けないと修羅になってしまうゲーム」だったため、最初から正論を主張してしまうとそれ以上精神的な成長を遂げる「伸びしろ」がなくなり、あっという間にNPC化してしまうからである。ただ、間違っているとはいえ他のプレイヤーの共感を得られない因縁だと逆にまた袋小路にはまってしまうので「間違ってはいるが、なんかわかる」因縁(恋人を殺されたから復讐するとか、頑迷な主君に仕えるとか)を設定しないと展開が辛くなる。このさじ加減が天羅の一番難しいところであり、面白いところでもあった。