キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー (ディズニーストーリーブック)
- 作者: クリストファー・マルクス,スティーヴン・マクフィーリー,有馬さとこ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/10/31
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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前に「ウィンターソルジャーについてまた書く」と言ったので、続きの話を。
どうしても某批評サイトの話になっちゃうんだけど(笑)。
以下、超ネタバレあり(というより見てるの前提)なので今更だけど折り畳みます。
さて。前田某氏は上の記事の冒頭でこんなことを書いている。
同じアメコミ映画でもDCコミック発「ダークナイト」シリーズあたりと比べると、マーベル・シネマティック・ユニバースの諸映画作品は、隠れた社会派テーマのようなものが薄く、大人の観客としては少々物足りない。
しかもキャプテン・アメリカは、マッチョスターのハルクやちょいワルオヤジのアイアンマンに比べ、いまいち個性が薄い。文字通り戦中派の愛国者、との設定を生かして、古き良き時代の男ならではの現代批判を織り交ぜていけばおもしろくなりそうのだが、あまりそういう方向性は見られない。
これを見た時、思わず唖然としてしまった。
ウィンターソルジャーが超・前面に押し出している「現代批判」に気づかないまま、この作品が物足りないとかキャプテンアメリカの個性が薄いとか言ってるのか!
前作「キャプテンアメリカ・ザ・ファースト・アベンジャー」でしつこいほどアースキン博士が強調していたように、キャプテンアメリカに投与された超人血清は腕力や体力だけでなく、それ以外のものも増幅させる。善なるものはより善く、邪なるものはより邪悪に。そして、知性もだ。あのヴィヴラニウム製の盾は、自動的に手元に戻ってくるのではなく、あくまでもキャップ自身が「卓越した知性で戻ってくることを計算して投げている」からブーメランのように扱えるのである。
そしてもちろん、適応力も増大している。だから、時間軸として前になる「アベンジャーズ」ではテクノロジーの進歩に驚きフューリー長官に10ドルを支払うシーンがあるが、今回は初っ端にこんな台詞がある。
「今の時代も悪くないよ。食べ物がうまいしネットも便利だしね。頑張って適応中さ」
しかし、ネットや車といったテクノロジーの変化は受け入れられたキャップにも、かつて所属していたSSRと、時を経てその後継組織となったSHIELDSへの変化はどうしても受け入れられなかった。だからフューリーの言葉にも最後まで納得しなかった。
「SHIELDSは物事を現実的に見る。君もそろそろ我々の方針に慣れろ」
「期待するな」
テクノロジーの変化は受け入れられても価値観の変化は受け入れられない。それがキャップなりの“古き良き時代の男”ならではの現代批判なんだよ! これが現代のすべてを否定してしまったらそれはキャップじゃなくなっちゃうだろ!
そしてキャップが覚えた違和感は、中盤のアーニム・ゾラ博士の言葉で形となって現れる。
「戦後、シールドが創設され、私は雇われた。そして新たなヒドラが、シールドの中で寄生虫のように育った」
「70年の間、ヒドラは危機や戦争を画策し強大化してきた。歴史が逆らえば歴史を変えた」
「ヒドラは世界を混沌とさせ、ついに人類は安全を手に入れるべく、自由を捨てる」
「ひとたび純化が完了すれば、新たな世界秩序が誕生する。我々は勝った」
「安全のために自由を捨てるのか」これがこの作品のメッセージだ。これが“現代批判”でなくて何なのか?
ちなみに、1と2を続けて観たからかもしれないが、このゾラ博士の再登場はいい意味で裏切られたというか、予想外だった。1ではレッドスカルに振り回されるコミックリリーフキャラのようだったけれど、なかなかどうして、2の視点で見てみるとレッドスカルなどよりよっぽどヒドラの勢力増大に貢献した、もっとも恐るべき敵だ。
なお、ここも凄い突っ込みどころである。
ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)率いるS.H.I.E.L.D.で働くキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース(クリス・エヴァンス)とブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)だが、スティーブはいまだ現代での生活やS.H.I.E.L.D.の活動になじめない。(中略)
裏テーマに頭をひねる必要がないぶん、豪華なキャストと少年少女向けヒーロー映画の王道を味わえる第二弾。出てくるヒーローは上記3人体制で、いずれもハイテンポなアクションを楽しませてくれる。
ちっがーう!!!
パッケージしか見てないのか?? 今回のヒーローは“キャップ”と“ブラックウィドウ”、それと“ファルコン”だろ! フューリー入れてもいいけど、なんで最初から最後まであれだけ活躍し、原作でもれっきとしたキャップのサイドキック(相棒)である“ファルコン”に一言も触れてないんだよ! “ファルコン”がギュンギュン飛び回ってハリアーと空中戦するシーンが、この映画の一番の見所の一つだろ!
しかもこの“ファルコン”、次期“アベンジャーズ”のメンバーなんだぞ!
さて、もう一度冒頭のフレーズを。
「キャプテン・アメリカは、マッチョスターのハルクやちょいワルオヤジのアイアンマンに比べ、いまいち個性が薄い」
これも違うと絶叫したい。というか、ウィンターソルジャーを見てそんな感想しか浮かばなかったのか? これがファミリー向けの作品に見えたのか?
ウィンターソルジャー全編を通して描かれたのは「相反する二つの正義」だ。フューリー長官、そして悪役であるアレキサンダー・ピアースもまた「正義の人」。キャップはただ単純に正義感が強いだけの「個性の薄い人」ではない。
クライマックスで、キャップがSHIELDSの職員たちに向けて演説をするシーンがある。戦術的にはまったく意味がないシーンだ。演説などしないでヘリキャリアを無力化しに向かった方が、結果的に被害も減らせたかもしれない。だが、彼はそうしなかった。たとえ賛同者が得られなかったとしても、キャップの信じる「正義」とはそういうものだからだ。冒頭でブラックウィドウに秘密任務を課したフューリーを、キャップは責めた。チームの信頼、それが彼の重んずるものだったからだ。正義のために手段を選ばないピアース、そしてフューリーの正義とはそこが違う。
マーベルシネマティックユニバースの一作品として、ウィンターソルジャーは何が描きたかったのか? それは「キャップの正義の形」だ。
あるいはこうも言える。自分の死期が近づいているのに、恋人にすらそれを明かさない。公聴会で「私は世界平和を民営化した」と言いながら、親友にすら胸中を明かさない。神経症を病むほどに悩み苦しみながら、子供にしかそのことを打ち明けられない。誰にも相談せずにウルトロンを生み出し、ヴィジョンを作り出す。そう、アイアンマンは「ちょいワルオヤジ」なんかではない。キャップとは異なる正義を体現するヒーロー、その正義はフューリーやピアース同様「抱え込む正義」であり「ひた隠す正義」だ。そして、原作でSHIELDSの次期長官に選ばれたのは、キャップではなくアイアンマン。それは偶然などではなく必然なのだ。
「アイアンマンの正義」と「キャップの正義」の違い。それが後に繋がる、重要な、超重要な伏線だ。ここまで丁寧に積み重ねられた伏線があるからこそ、次の「シビルウォー」への布石が生きるのだ。マーベルシネマティックユニバースを全部見ていると嘯きながらこの伏線が読み取れなかったのだとしたら、この映画を見た意味は半分もない。感想として「キャップのアクションがカッコいい」だの「スカヨハの胸がでかい」だのとしか出てこないのもむべなるかな、だ。