噛めば噛むほど

 実家に帰っている間手持ち無沙汰だったので、ガルパンのTV版とOVAを最初から見返してみた。


 実は、劇場版1回目を観た時、前半を削って……的な感想を書いたが、この間2回目を観て最初の感想を撤回したくなった。ネットの評判でも「1回目が70点、2回目が90点、3回目が120点」と書いている人を見かけたけれど、まさにそんな感じ。徹頭徹尾周到に伏線が張り巡らされていて、それに気づけば気づくほど「削れる場所がない」ことがわかってくる。
 TV版も同じだ。


 前にも書いたが、私は最初TV版の抜粋を観て、それからDVD版を見たので、割とイメージが散逸してしまっていた。で、改めて冒頭から見直して吹いた。まさか、第1話のみほの起床シーンから伏線だったとは……。


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 みほが起床するシーンは毎回オープニングで流れるので、なんとなく何度も観たつもりになってしまっていたが、実際1話の起床シーンは「目覚まし時計に起こされる」→「慌てて身支度を整えようとする」→「ふと気づいて手を止め『もううちじゃないんだ!』」という流れである。この作品の、時系列的に一番最初にあるみほの台詞がこの「もううちじゃないんだ!」だ。
 つまり、この時点で既に「実家にいたときは家元の娘とはいえ(むしろそれだからこそ)起床時間も含めメチャクチャ厳しかった」ことが暗示されているのだ。私は初見では完全にスルーしてしまっていた。


 また、限られた尺の中に細かく情報が詰め込まれている。
 例えば2巻(TV放映3話と4話)で、聖グロリアーナ女学院に敗北する→ダージリンと顔合わせ→あんこう踊りを踊らされる→新三郎と華の母親登場→実家で華が勘当される→学園艦に戻ってダージリンから紅茶を贈られる→公式戦の抽選→対戦相手がサンダースに決まる──なんと、この間たった7分間である。話題のあんこう踊りも実は15秒しかない。



 ここで、今回初めて気づいて悔しかったのが、華の伏線を完全にスルーしてしまっていたこと。みほと華の関係については「似たような古い家柄の二人で、お互いに似た境遇で共感や同情しあっている」くらいにしか考えておらず「でもなんかかぶってないか?」と思っていたが、もっと明確に二人の関係は作中で明示されており、かつその存在は必須であることがようやく読み取れた。

 華は「みほの先を歩く者」である。みほの決断や選択、逡巡を後押しするために存在する。
 実家での華と母親のやり取りは、自らの心象における自分と母親とのやり取りの影写しだ。さらに、みほ自身が自覚していなかった戦車道自体への姿勢もここで浮き彫りにされている。
 華は華道の家元の家に生まれ、小さな頃から華道を嗜んでいた。そして戦車道を始めたのは、親から受け継いだ「可憐で清楚な五十鈴流」に限界を感じたからである。そしてここで「戦車道を辞めない」ことで母親に反発し、それで勘当されてもいいとまで言い切る。
 逆にみほは「家を出る」ことが先に来ていて、戦車道への姿勢ははっきりしなかった。もう戦車道はやらないつもりで大洗に転校したが、友達が自分の希望を捨ててまでみほを庇ってくれたことから、戦車道を続ける決意をした。言い換えれば戦車道を辞めることより友情を優先したわけだ。しかし、半端な形で続けてしまった戦車道に対する自分自身のスタンスは、その時点では明示されていない。

 最初見たとき「あれっ?」と思ったのはこの華の実家のシーンでのみほの台詞。「五十鈴さん……私も、頑張る」である。ここは華と母親のシーンであって、みほや戦車道を語るシーンではない。なぜ「頑張る」が華への返答になるのか?
 華は、華道を辞めたいのではない。「力強い花を生けたい」のだ。そして「いつか、お母様を納得させられるような花を生けることができれば、きっとわかってもらえる」とみほたちに語る。これはみほの境遇にそのまま当てはまる。「戦車道を辞めるのではなく『楽しい戦車道』、みほの戦車道を見つけること。そしていつかしほを納得させられるような試合ができれば、きっとわかってもらえる」──つまり、リトルアーミーでのまほの「あなた自身の戦車道を見つけなさい」という台詞に相当するTV版の台詞がこの華の台詞だ。

 初見だと、華と母親の相克はこのシーンの後すぐに第10話での和解シーンに繋がるので「なんだかあっさりしてる」という感想だったが、これを西住流の視点から見ると、決勝戦前に和解に繋がっていないと、みほの先を歩む者としての華の立ち位置がおかしくなってしまうのだ。


 ああ、語りきらない……続き(まほについて)は明日以降に。