サリエリの苦悩


 昨日の続きの話。考えれば考えるほど、よくできてる。みほとエリカという人間の、埋めようもない溝というものがよく表現されていた。


(以下、ネタバレありのため注意)












 エリカとみほは副隊長の地位を賭けて戦い、みほはわざと負けた。それを知ったエリカはみほを殴る。
 みほの一番ダメな部分が出ているシーンだ。


 みほは天才だ。しかもミカのように傍若無人な天才ではなく、気遣いのできる天才だ。しかしそれでも、天才が故の欠点からは逃れられない。
 今回のみほの行動で一番拙いのは、わざと負けたこと自体もさることながら「わざと負けたのか」と聞かれて、微塵も悪びれることなく「その方がいいと思ったから」と答えたことだ。
 みほにとっては、気を使っているつもりなのだろう。エリカは負けたら戦車道を辞めるとまで言っている。自分が負けた方が角が立たない。それは確かだ。しかし、それならその秘密は墓場まで持っていくべきだった。どんなに努力しても、決して追いつけない敵から情けをかけられる。そのことが相手にとってどれだけ屈辱的なことか。その感情が、みほには理解できていない。なぜか。
 みほにとっては、エリカとの勝負で勝つことなど造作もないことだからだ。みほにとっては戦車道で勝つことは「大したことではない」のだ。だからわざと負けても何とも思わないし、それで相手が傷つくなど思いもよらない。エリカも、その仲間も、そしてもしかしたら、みほの車両に同乗した仲間たちも、勝負に勝つために全存在を賭けて努力した。それをあっさりと否定してのける。悪意もなく。


 彼女たちの生きている世界、見ているものは違いすぎる。


 エリカは「3回勝てるチャンスがあったはず」と言った。もしかしたら、みほから見たら、3回どころかもっとたくさんあるチャンスを全部見逃した、のかもしれない。まほとみほに追いつける視点の持ち主のみにしか、真相はわからない。

 さらにもう一つ。エリカの同乗者たち、みほの同乗者たち、他の黒森峰のメンバー、誰もがみほがわざと負けたことに気づかなかった。そこまで辿りつけたのはみほとまほとエリカだけだ。その意味では、エリカには正しく副隊長の資格がある。しかし、それでもなお、みほの足元にすら及んでいない。
 それをまざまざと見せ付けられれば、それも、みほが自分の仲間すらいわば欺いたことを見せ付けられれば、エリカとしては怒りをぶつけるしかないだろう。
 私が思い出したのは「アマデウス」のサリエリだ。
 そう考えると、実はまほの言ってることも結構ひどい。サリエリに向かって「お前はモーツァルトの下でオーベルシュタインをやれ」と言っているに等しい。


 そして改めて実感したのが、やはり会長は必要な人材だったのだということだ(笑)。


 一般人の心情を斟酌できないみほは、指揮官になれても指導者にはなれない。人の心を動かせない。少なくとも物語開始時点ではそうだ。手加減してわざと負けるみほと、無理強いされて戦車道をやらされるみほは、同じコインの表裏だ。戦ってわざと負けるのは優しさではない。戦車道は彼女にとって全てを賭け得るものではなかったというだけのこと。それが変わったのは、会長に嵌められて、彼女が「自分自身の戦車道を見つけた」と言えるようになってからだ。
 以前、ガルパンは大洗女子の成長の物語であり、みほの成長の物語ではないと書いたが、訂正する。みほの戦車道の腕前は成長していない(するまでもない)が、精神は大きく成長している。これはまごうことなき、みほの成長の物語だ。


 しかし、改めて思うが、エリカはいい奴だ。凄くいい奴だ。
 本編はみほ視点で話が進むから、喫茶店の邂逅シーンのエリカが嫌味な奴に見える。が、今回のこのやり取りを踏まえたものだと考えれば、嫌味の一つも言いたくなって当然だろう。むしろ、嫌味だけで済ませた上に、みほの姉であるまほには一切怒りをぶつけることなく、実戦では正々堂々と戦ったのだから見上げたものだ。
 しかもその実戦では、将棋でいうところの飛車角香車落ちで敗北を喫する羽目になったのだ。その相手のピンチと聞いて、普通駆けつけるか?

 劇場版のエンディングで、嫌そうな顔をしながらもカチューシャを肩車してやったエリカ。もし彼女が心酔したのがまほでなく、アンチョビだったら。彼女が入学したのがアンツィオ高校だったら。案外、明るくてお人好しのエリカを見ることができたのかもしれない。