地獄への道は、善意で舗装されている

 昨日のエントリの続きというか、続報である。


http://lodestone.finalfantasyxiv.com/rc/diary/entry?e=84223


 長い間、いくつかの(大した数ではないが)MMORPGをプレイしてきて、非常によく見かける、しかし私にとっては不愉快なことがある。それは、ログインしてきて「やることがない」「つまらない」「もうやめようかな」と連呼するプレイヤーの存在だ。
 別にログインすることを誰かに強制されているわけではないのだから、つまらなくてやることがないならログインしなければいい。外部のサイトやブログで呟くのではなく、やることがあって面白いと思っているからログインして遊んでいる他の人間に対してそれを聞かせることは「お前が楽しんでいるこのゲームは面白くないよ」と表明することであって、相手の考え方を真っ向から否定する、大変失礼な行為だと私は思う。


「私はFF14を続けるよ」キャンペーンはこれと正反対なことをしているように見えるが、実は同じコインの表と裏の関係にある。


 例えばFF14を始めて間もない人間、あるいは私のようにFF14をやるかどうか迷っている人間(いた人間、と過去形で言った方がいいかもしれないが)にとって、気になること、知りたいことは「FF14は面白いのか」「どこがどう面白いのか」「どう遊べば面白いところまでたどりつけるのか」ということであって、通りすがりの見も知らぬ他人がFF14を続けるかどうかなど、3軒先の隣家の明日の朝食のメニューほどにどうでもいいことだ。
 その「どうでもいいこと」をわざわざ他人に表明するのは何故か。それは「私はFF14を続けるよ──だからあなたもやめないよね」という、言外の無言の圧力をかけるためではないか?
 そんなつもりはない、と主催者はいうかもしれない。しかし現に、続く掲示板の書き込みがそうなっていない。この手の活動は反対者を排斥する方向に流れがちで、現に「この活動に賛同しない人間もいるということを理解してほしい」「もうやめようかと思っている」という書き込みに対して集中砲火が浴びせられている。
 しかし、主催者に「FF14を続ける自由」があるのと同様に、他のプレイヤーには「続けない自由」がある。「活動に賛同してくれる人間のためにも、私はやめない」と主催者がいうのであれば、同様に「活動に反対する人間がいること」も許容するべきだった。


 私がずっとMMORPGをやってきて、心がけていることが一つある。それは去り行く人を引き止めないことだ。冷たいようだが、去り行く人を引き止めることは、辞めようという選択をした人間の考え方を否定することを意味する。それは、冒頭で挙げた「ログインしてきて面白くないと連呼する人間」と同じ過ちを犯すことだ。相手の考え方を認めないという過ちを。


 つまらないと言っている人間、どこが面白いのと言っている人間に対してできることは「一緒に遊びませんか」「こんな遊び方もありますよ」と提案することだけだ。そうやって友達になって初めて、その人がFF14を続けるかどうか、去就が気になる相手になりうる。この活動は次回「遊ぼうよキャンペーン」という活動になるそうだが、まさにそれをこそ最初にするべきだった。


 さて、ここからは活動の主催者ではなく、運営の問題だ。


 本来FF14が普通に運営されているなら、恐らく彼(彼女?)の活動は「遊ぼうよキャンペーン」が最初だったはずだ。初心者の人たち一緒に遊びませんか、という提案は非常によく理解できる。
 なぜ彼の活動の最初が「遊ぼうよ」ではなく「続けるよ」だったのか。それは恐らく非常に強い危機感の表れだ。
 普通に考えれば、最初に書いたとおりFF14が楽しいからログインしてくるはずであって、わざわざ続けるとか続けないとか意思表示をする行為に意味は薄い。FF14のプレイヤーが減少し、新規が減り、既存のプレイヤーも閉塞感を覚えて次々と姿を消していっているからこそ、それに歯止めをかけたいという強い希望から「続けるよ!」キャンペーンになったのだろう。
 繰り返すがゲームそのものが楽しく、それが容易に伝わるなら、プレイヤーがわざわざこんなキャンペーンをする必要そのものを感じないはずだ。それができていないのが最大の問題であり、このキャンペーンの主催者は被害者でもある。


 つまり、一緒に遊ぼうよという試みが、私はこのゲームをやめないぞ! という意思表示に転化してしまうそのこと自体が、逆説的にこのゲームの危機的な状況をこれ以上ないほど如実に表しているといえる。


 コンチェルト考察の続きは、また明日で。