星を追う子ども

Q.「星を追う子ども」面白かった?


A.映像は凄く綺麗だったよ。











(以下ネタバレあり。辛口なのでファンの人はここで引き返してね)










 正直言って、綺麗な映像以外に価値を見出すのは難しかった……。
 一緒に行った人とあれこれ話した内容を以下にざっとまとめてみる。


 あちこちの評価で散見される「ジブリっぽい」という意見。これは無理もない。ナウシカからラピュタ、トトロからもののけ千と千尋に至るまでまんべんなく「どこかで見たようなシーン」が何度も見れる。挙げたらきりがないし他の人も指摘しているので、これについては一々指摘しない。念のために付け加えると、全体的な印象がではなく個々のシーンやキャラクターの造形が似ているレベル。
 ただし、ジブリ作品に似ていることは、むしろ(昔の)ジブリ作品の凄さを改めて再認識させてくれる。ラピュタはこんなに凄いんだ、と描写したいのなら、扉を開けただけでラピュタに着いたりしてはまずいし、ムスカとシータが手を取りあってラピュタを探索したりしてはいけないということがよくわかるからだ。

 この作品は、プロットのほとんどが「どこかがずれている、何かがはまっていない」というのが第一印象だった。前作は説明不足(というより説明を放棄した)と映ったのだが、今作を見て「単に説明不足というんじゃなく、そもそも描写が足りてないと気づいていないのでは」と思った。

 例えば、主人公アスナが地底世界「アガルタ」を目指すことになる理由。「主人公がたまたま同じくらいの年の男の子と会い、助けてもらう」→「その子が何故か死んでしまう」→「死者を生き返らせる地底世界アガルタのことを知り、そこを目指すことにする」……いや、おかしいだろこの流れ!
 わかりやすいのでジブリラピュタと比べると、パズーはシータと会って初めてラピュタのことを知ったわけじゃなくて、シータに会う前からラピュタのことを知っていて、ラピュタを探すために飛行機を一生懸命作っていて、といくつもの伏線がちゃんとあるから「ラピュタを目指して空賊と手を組む」という行動に説得力が生まれる。
 仮にアスナが男の子に一目惚れしてたとしたって、アガルタに行けば死者が生き返るっていうのは先生が言ってるだけのことで、その張本人の先生に戦闘ヘリから機銃で掃射された上に人質にされ、銃を突きつけられて発砲までされたのに、さあ一緒にアガルタを目指して仲良く旅をしましょう! なんて心境になるとはとうてい思えない。

 これはあくまでも一例だけど、一事が万事こんな感じ。
 アスナは「なんとなくこの世界に居場所がないと思ってた」と言いながら別にクラスで孤立しているわけでもないし友達もいる。
 死んだ男の子は生前なんだか意味ありげなことをアスナに語りかけるが、内容はその後の物語に関係がない。
 先生が所属してる秘密結社はその後一言も出てこない……。
 要は、演出したいシーンや描きたいプロットだけを繋げて話を作っていて、そこに至る伏線とかが全然ない(もしくは全然足りてない)のだ。
 アスナがアガルタに行くと決意するほど男の子を生き返らせたいと願うのなら、二人の心の交流をもっと長い時間かけて語らないといけない。アガルタの存在をアスナが確証するには先生を通じて以外にアガルタのことを証立てる何かがないと不自然だ(死んだアスナの父親がアガルタの出身だったっぽい描写がチラッとあるんだが、それなら父親とアガルタをつなげる何かを描写すればいい)。銃撃されてもなお先生を信用するというのならそこに至る理由が語られていないとおかしい。
 そもそもアスナが寂しいと感じていたのは男の子と会う前からなんだから、生き返らせようと思うのならまず父親というのが自然だ。父親の形見の鉱石ラジオ聞いてるんだし。もちろん父親を生き返らせようと考えるに至るまでには必要な伏線を張る必要があるけど、初対面の男の子を生き返らせようと奮闘するというよりは説得力がある。

 また、たぶん原因は同じところにあるんだろうけど、時代設定とか考証がメチャメチャ。山奥でヘリポートもないのに長距離巡航できる戦闘ヘリが登場し、H&K短機関銃っぽい銃が登場するのに村の車が三輪車? そして先生が使っているのはPCじゃなくてタイプライター? 一体これの舞台は現代なのか過去なのか、それとも架空世界なのか。まさかいくらなんでも、架空世界にうまい棒が出てくるとは思えないが……。


 必然性のない行動をするのは人間だけじゃなくて、作中に登場する怪物まで行動が意味不明。アスナをつけ狙って食い殺そうとするアガルタの怪物が出てくるんだけど、寝込みを襲ったくせにいきなり齧りつかないでどこかの遺跡に運んでいき、何故か放置。しかも自分たちは光と水が苦手なのに日の光が燦々と降り注ぐ広場の真ん中にアスナを置きっぱなしにするとか訳がわからない。特に何も考えてないんだと思うけど、もし何か隠し設定とか理由があるのだとすれば、やっぱり全然描写が足りてないというしかない。

 もっと言えば、アガルタから訪れた少年はいらないプロットだし、怪物もいらないプロット。クライマックスシーンで斬り合いの死闘を演じるターバンの男もいらない(主人公と斬り合ってるわけでもないし)。
 それより語らないといけないことが他にたくさんあるだろう。


 一つ一つのシーンは非常に美しい。特にアガルタに向かう前の主人公が暮らしている村の描写はさすがだ。雨が降っているシーンの一つ一つの雨の描写とか、山の中の分校の様子、夕暮れの陽が差し込む図書館のシーンとか、先生のアパートの窓から見える風景とか、あれを描けるクリエイターは多分新海氏しかいないだろう。それだけに非常に惜しいというか、もったいない。美しいものが描きたいという思いが先行して、ストーリーの構成を二の次にしちゃってるんじゃないかという気がするのだ。


http://www.hoshi-o-kodomo.jp/staff.html


 インタビューを見る限り脚本は合議制だったみたいだけど、他の人は特に何も思わなかったんだろうか。監督には天賦の才能があって、それは他の人には真似できないんだろうから(他の人が作画したという馬が走る描写を見れば、逆に新海氏の才能の凄さが分かる)、プロットを取捨選択して脚本をブラッシュアップして117分間という時間に詰め込むことこそ、他の人の果たすべき役割だったと思うのだが……。