大喜利マスターで久しぶりにゼノグラシアという言葉を目にしたので、アイドルマスターの例のアレについて、個人的な意見など。
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2007/07/27
- メディア: DVD
- 購入: 3人 クリック: 137回
- この商品を含むブログ (100件) を見る
本来は「真性異言」と訳され、「知らないはずの言語を話す現象」を指す。
アイドルマスターで「ゼノグラシア」といえば、原作ファンにとっては黒歴史以外の何物でもない。放映からずいぶん経った今となってもまだ、ブログでも掲示板でもニコマス動画のコメントでも、ゼノグラシアといえばアンタッチャブルか自虐の代名詞的な扱いをされていることが多い。
ごく稀に、ゼノグラシアを擁護する意見もある。
http://anond.hatelabo.jp/20090323235853
こんな意見だ。乱暴に要約すれば「ゼノグラシアは、アイマスとして見ないでロボットアニメとして見れば面白いよ」「アイマスのキャラが出演するドラマとして見ればいいんじゃないの?」となるだろうか。私の友人もほぼ同一主旨のことを言っていた。
それに対する私の意見は、結論部分を除くとこの意見とほぼ同じだ。
http://anond.hatelabo.jp/20090326220332
私も「アイドルたちが出演するドラマ形式のアニメ」はありだと思う。ただ、そう解釈するのに必要な最低条件を、ゼノグラシアは満たしていない。
この人も言っているように、ゼノグラシアを「アイドルが出演しているドラマ作品として観る」ためには「変えてはいけないお約束」がある。
千早の性格がぶっ壊れていることも、あずさの年齢が実は50歳以上であることも、やよいが着ぐるみ好きなことも、そういう脚本のドラマだと言われれば納得できなくはない。小鳥さんが出ていない理由も説明はつく。
説明がつかないのは「声」と「体型」である。
私は別に中の人のファンではない(というか声優としてメジャーなのはむしろゼノグラシアのメンバーのほうだろう)が、声を変えてしまったら「これは765プロのアイドルが出演するドラマ」というお約束は成り立たなくなってしまう。違うドラマに出演するたび声が変わるアイドルがいるだろうか?
少々強引だが、声は「吹き替えの人が違う」とでも解釈するとしよう。でも体型が違うのは説明のしようがない。
伊織の身長がとんでもなく高くなっていたり、貧乳が爆乳になったり爆乳が貧乳になったり、これは「役作りで変わった」レベルの変更の範囲を明らかに越えている。ウィキペディアによれば作劇上の理由ということだが…私には必須な変更には思えなかった。
上の意見の人は、ゼノグラシアにスパロボに出て欲しいという結論になっているが、私が見たところ原作ファンがゼノグラシアを受け入れる妥協点の最低ラインは「ゲーム版の声優で全編吹き替えのやり直し」と「作画のやり直し」という、100%実現不可能なラインだと思う。
同じところに否定派の反論も上がっていたので紹介しよう。
http://anond.hatelabo.jp/20090615172750
この人の意見の全てに賛同するわけではないが、一ついえることがある。それは「もしゼノグラシアが大成功していたら、今のアイマスはない」ということだ。
ゼノグラシアの放映開始時は、アーケードの人気に陰りが見え、XBOX360版は発売されたばかりで先が見えず、ニコニコ動画などのファンコミュニティもまだ育っていない、いわば「プロジェクト・アイマスにとっては辛い時期」だった。
そんな時期に「舞himeプロジェクトの一環としてのアイマス」が大ヒットしていたら、恐らくプロジェクトアイマスは舞himeに飲み込まれる形でなくなっていただろう。現に、ゼノグラシアのキャラクターソングCDではやよいが舞himeの曲を歌っていたり、舞hime側の宣伝はいろいろされている。にもかかわらず、ゲーム版につながる橋渡しになる設定が一切ない。2番目の意見の人が述べているように、例えばアイキャッチやエピローグなどで、舞台裏の「アイドルの素顔」を描写していればまた印象は違ったはずだ。
「あずさお姉ちゃん50歳だって〜w(亜美)」
「あらあら、それはどういう意味かしら〜(あずさ)」
「なんで私が貧乏性な役なのよ!(伊織)」
とか。
アイマスファンは「ゼノグラシアがアイマスじゃないから嫌い」なのではない。「ゼノグラシアは、舞himeがアイマスを飲み込もうとするプロジェクトだったから生理的に拒否反応を示した」のだと思う。
その意味では、ゼノグラシアが失敗したことは、皮肉なことにアイマスにとってはいいことだったといえるのかもしれない。
さて、ゼノグラシアをめぐる意見の中でこういうものがある。「アイドルマスターは元々アニメ化が困難な作品なのだ」と。
アイドラやドラマCDを見る限り「そんなことはないだろう」と思うのだが、では「アイドルの日常を描く作品」ではなく、「アイマスのキャラが出演するドラマとしてのアニメ作品」は成立しうるのだろうか?
実は、そういうコンセプトで作られた作品が既にある。次回、その成功例と失敗例(私がそう思ってるだけだけど)を挙げてみよう。
最後に、ゼノグラシア全編をアイマスと切り離して見た時の感想を。
EVAのパクリだという人もいるが、それを言い出したら他にもそういう作品は多いし、きりがないので置いておく。
作画レベルは全編通して比較的高い。ただ、舞hime同様どんでん返しと登場人物の心情がジェットコースターのように上から下へ、下から上にめまぐるしく変わるのは抵抗があった。それと、千早と真が可哀想すぎるのと、健気でめげない伊織という珍しい生き物が見れる。
インベルとヌービアムを始めとするiDOL(ロボット)、そして春香にはまったく感情移入できなかったw(敵役であるはずの千早と、言ってることが変わらない気がする)。
桜井智さんとか池田昌子(!)さんが出ていたり、地味に見所は結構あるんだけど…。
「宇宙をかける少女」のように、アイマスではなくて舞himeの一作品として出ていれば、また評価は違ったのかもしれない。そういう意味では、不幸な作品だ。
(*)今回の日記では、ゼノグラシアについての私見を書いていたら、ほぼまったく同じ内容の「はてな匿名ダイアリー」のエントリが見つかったため、引用する形にさせていただきました。匿名ダイアリーなので引用元は明示していますが、許可は取っていません。問題が発生した場合は、今回のエントリを削除する可能性があります。