昨日の補足

 昨日のエントリで、なぜ天羅(無印)ならセッションができると思ったか、という話についてちょっと補足する。

弱いことが「強い」?

 天羅(無印)は他のゲームと違い“弱い”ことも活躍するための長所に転化できるゲームである。“弱くても活躍できる”のではない。“弱いからこそ活躍できる”場面を作れるということだ。
 これはルールブックに明記されている。「相手を斬り倒すことを生業とするサムライが敵の前に立ちはだかる」のと「本来戦うことのできない傀儡が懐刀一本を持って敵の前に立ちはだかる」のではニュアンスが異なる。弱くても剣を取って立ち上がることにこそ意味がある場面もあるのだ。
 それを踏まえた上で、もし私がシナリオを組むとしたら、村側につくPCと旅人のPCに分かれてもらう。必ずしも最初から村人と同じ立場である必要はないが、手持ちの因縁からみて心情的に村側につかざるを得ないPCを用意しておく。素のアーキタイプそのままならば、若武者、少年、傀儡、戦闘用傀儡あたり。特に傀儡は「領主の所有物です」とやれば、村人側につかざるを得なくなるはずだ。忍や金剛機が領主の手元にいる、というシナリオもあり得るのだが、そうなると村人側の方が戦力的に明らかに優位に立つため「力づくでPCたちを村に閉じ込める」図式となり、記事の主旨からはかけ離れる。*1

農民無双は是か非か

 この記事の中心、そして一番扱いづらいところは「戦力でみると無力な農民たちが、立場上同情せざるを得ない事情によってPCたちに不本意な行動を強いる」部分にあるので、村人たちが「普通に強い」あるいは「普通に強い戦力を雇っている」となると単なる拉致監禁シナリオに変わってしまう。PCたちは大手を振って村側と戦端を開き、監視者を倒して逃げ出して終了だ。
 これは、ゲームシステムが何を持ってプレイヤーにカタルシスを与えようとしているか、というゲームの設計思想の問題でもある。普通のゲームは、シナリオ上の障害として「敵」が配置され、これを排除してシナリオ上の目的を達成することでカタルシスを得られるようになっている。このため、「無力な村人」は「障害になりえない」ので「カタルシスが得られない」。だからこの記事はシナリオソースとしてこのまま使うのはおかしい、という話になる。
 しかし天羅(無印)の場合、因縁に沿ってロールプレイを行い気合ロールをすることでカタルシスを得る。*2「敵」もまた気合ロールをするための素材の一つでしかない。「無力な村人」が相手だろうが「最強無比の金剛機」が相手だろうが気合ロールさえできればカタルシスは得られる。ただし、普通は「その他大勢」である村人相手にロールプレイをする必然性が薄いので、「PCの誰かに村人側に回ってもらう」わけだ。もちろん、その分普通のゲームとは比較にならない「場の雰囲気を汲み取る」努力が全員に求められる。簡単に言えば「旅人側のサムライPCがあっさりと村人側についた傀儡PCを斬殺して終了」という展開ではゲームとしてまずい、という共通認識が必要となる。*3

苦しい暮らしは誰のせい?

 さて、では昨日書いた「一捻り」とは何かというと、これはもう簡単。「領主の背後で真の黒幕が糸を引いている」ことにすればいい。これはもう私が一々書くまでもなく、昨日触れたような「普通のまともなGM」ならすぐ思いつくことだろう。*4ただし、黒幕が別にいることにすると記事の主旨とはズレる。繰り返しになるがこの記事の主旨は「戦力でみると無力な農民たちが、立場上同情せざるを得ない事情によってPCたちに不本意な行動を強いる」部分なので。
 しかも、たとえ黒幕がいてそれを排除することに成功したとしても、必ずしも問題は解決しない。この記事が取り上げている根本的な問題点は社会制度上の問題点だからだ。エンディングはほろ苦いものにならざるを得ない(黒幕は排除できたが村は人手不足のまま、など)。でなければ、社会制度上の問題点を黒幕に押し付けてしまうか、だ。例えば「荘園に人が寄り付かなかったのは黒幕のネクロマンサーの黒い噂が流れていたせいで、それを倒したことにより人の流れが戻る」とか。まぁ、そうなると今度は「この記事の内容なくても関係ないよね」という話になってしまうのであるが……。

*1:そもそも天羅無印でこの記事を再現しようということ自体に無理があるという話は置いておくとして。

*2:逆に戦闘ルールは非常にシンプルにできている。データ上の最強キャラがあっさり作れてしまうことからも戦闘に比重が置かれていないのがわかる。

*3:この共通認識の構築が難しいからこそ無印天羅はその後の主流にならなかったともいえる。

*4:言い方を変えるなら、その誰もが考え付く一捻りすら記事で触れないとはどういうことだ、って話なのだが……。