これから

これから
あの映画を
観に行って
きます。

見てきました

未来のミライ


 噂に違わず、実写版デビルマン級。


(以下、かなりの酷評のため念のため折り畳みます)














 いつもだと、映画の筋に従って箇条書きに感想を書いていくのだけど、この作品ではそれはしない。というか、それすらできない。筋を追うこと自体に意味を感じられない作品だからだ。


 冒頭で実写版デビルマンを引き合いに出したが、事情が違うところもある。実写版デビルマンは「何から何までダメで、いいところを見つけるのが難しい」作品だったが(ミーコと少年の演技くらい?)、「未来のミライ」はどこがダメなのかははっきりしている。つまり、これが飛び抜けてダメだと他が良くても駄作になるといういい例である。


 未来のミライは、コンセプトが間違っている上に構成が死んでいる。

コンセプトが間違っている

 これは細田監督というより、製作スタッフ全員に問いたい。
 「あなた方は4歳の子供に共感できますか?」と。
 私はできない。


 先人の感想の中に「くんちゃんがクソガキすぎる」というのがあった。

【ややネタバレ】未来のミライは独身者にとって何一つ得るものはない

 それに対して「リアルな4歳の子供なんてあんなもんだろう」という反論がある。恐らくどちらも正しい。
 4歳の時の自分を思い出せる人間はほぼいないだろう。時をかける少女サマーウォーズが共感を得られたのは、高校生だった自分、あるいは今高校生である自分が感情移入できるからだ。4歳の子供に感情移入できるだろうか? くんちゃんの感情に「ああ、俺にもああいう頃があったわー」と共感できる人間がいるだろうか? そもそも主人公を4歳の子供にするというコンセプト自体が間違っているのだ。
 「うちの子供も4歳の頃はああだった」というのは違う。それは親の視点だ。この作品、視点が主人公やら父親やら母親やら飛びまくるので紛らわしいが、主人公はくんちゃんであって両親ではない。その両親の心情も、語られたと思ったら二度と触れられなかったり、話がぶつ切りになる構成上、両親に感情移入するのも阻害されるようになっている。
 

構成が死んでいる

 この作品は実質オムニバス形式になっていて、作中のそれぞれのエピソードは独立しており、脈絡がまったくない。このため、観客は成長のまったくないくんちゃんにその都度イライラさせられることになる。ここでも主人公が4歳であることが物語の足を引っ張っている。
 この作品の構成の「脈絡のなさ」が端的にわかる象徴的なシーンを一つ挙げよう。一応断っておくが、このシーンだけがダメなのではなくて、全部がダメなうちのあくまでも一つだけである。


 物語の終盤、ミライとくんちゃんが未来の東京駅から帰還するために空を飛んでいるシーン(この状況説明だけでもかなり終わってる感があるが、この状況に至る説明は作中皆無である)。過去の父親が自転車を練習する情景を指して、ミライが言う。「お父さんは体が弱くて、小学校に上がるまで自転車に乗れなかったんだよ」


 くんちゃんが自転車に乗るエピソードは、もう20分も前に終わってるんだけど!?
 もう自転車に乗れるようになっている主人公に向かって、わざわざ父親が自転車に乗れなかったことを暴露する意味は??


 繰り返すが、これが主人公がもうちょっと年齢が上で、ここで語られた内容を欠片でも覚えていられるなら、まだ意味が感じられるが、恐らく4歳の主人公はここで語られたことを忘れる。ミライがこの前後で語る、この作品のテーマらしきものも全て一緒にだ。
 一事が万事これである。監督をポスト宮崎と持ち上げたいのなら、くんちゃんに「千と千尋」の千尋の爪の垢でも煎じて飲ませるべきだろう。この二作品、テーマが似ているだけに出来の違いが如実にわかってしまう。

本当に悪いのは

 さて、問題はここからである。映画界は広い。コンセプトや構成が死んでいる作品は他にもごまんとある。「未来のミライ」もグーグル先生が70%が評価しているというくらいだ。楽しめたという人も中にはいるのだろう。
 本当の問題はどこにあるのか。それは「本来ミニシアター系か何かにかけるべきカルト的な作品を、あたかもジブリ作品のように宣伝し、大規模公開したこと」だろう。それも、この作品の拙いところを隠して、である。
 その意図がよく表れているのが、タイトルであり予告編だ。



 この予告編からは、本編がオムニバスであることも、ミライが15分ほどの出番しかない端役であることも、ましてや予告の最後で語られる「ミライちゃんはどうして未来からやってきたの?」という疑問に作中まったく答えが出されない、それどころか疑問そのものすら提示されることがないという目を覆わんばかりの事実も読み取ることはできない。作品名を入力すると、グーグル先生が「予告詐欺」とサジェストを返してくるのもむべなるかなである。
 そして、この誇大広告のツケを払うのは、今作ではない。次回作である。制作陣は、未来に大きな借金をしたことになる。
 

最後に

 先のTogetterのまとめで、面白いコメントがあった。


『未来のミライ』建築家(お父さん)の匠の仕事ぶりにツッコミを入れる皆さん

細田守って多分、映画を作るために一般ウケしそうな「家族」とか「子供」「人との繋がり」をネタに映画作るけど、どの作品も本当は「家族」「子供」「人との繋がり」とかに全く興味ないんだろうなーっていうのが毎回滲み出てて一周回って清々しさすら感じる もしくはめちゃくちゃ鈍感なのか とにかくそれらの概念が理解できないAIに作らせた作品って感じ


 ガルパンで黒森峰学園の車両にファイヤーフライが含まれていたら、戦車が好きな人はみんな突っ込みを入れるだろう。私は子育てに詳しくないが、この映画はそういう面での突っ込みどころが満載であるという感想は上のまとめも含めあちこちで見る。前々作もそうだった。それもこれも、上記のような理由なら頷ける。あくまでも推測の話でしかないが。
 また比較対象にしてしまうが、宮崎監督が特異な天才であるところはそこだと思う。どれだけ持ち上げられようが、どれだけ持て囃されようが、絶対に自分の描きたいもの、興味のあるものしか描かない。そして、作品のためなら何でもする。それこそ若き日の細田監督を切り捨てることさえした。だからこそそこにエネルギーがあり、余人の突っ込みを許さない細部へのこだわりがある。
 だが、それは容易には真似できないものだ。宮崎監督以外の人間は、他人の目を入れて作品の方向性を補正していく方が、まだしも可能性がある。新海監督を見るとそう感じるのである。原作、脚本、監督を一人でこなし続けられるのは、本当に本物の天才だけなのだ。

おまけ

 監督と関係ない部分で一つだけ。
 これもあちこちで言われているが、くんちゃんの声はどう脳内で補完しても男の子の声には聞こえない。公開中何度か目を閉じて音だけで聞いてみたけれど、自転車に乗ろうと踏ん張っているシーンなどは妊婦がいきんでいるようにしか聞こえなかった。