構造的欠陥


 実際に、製作スタッフに悪意や憎悪があったかどうかは、厳密には客観的な判断はし難い。それは本人たちの内心のものであって、全ては偶然だと開き直られたら立証ができないからだ。
 ただ、けものフレンズ2という作品の構造的な欠陥については、客観的な観点で検証が可能だ。結果論になってしまうが、実はスタッフの過去の実績や1話の惨状を実際に見るまでもなく、けものフレンズ2が構造的な欠陥を抱えていることは公開前に既に明らかだった。

 それは、公開前に発表されていた。主人公たちの顔ぶれである。

 けものフレンズ第1期の主役だったのは、かばんちゃん、サーバル、ラッキービーストの3人。作中での名称はないが、登場した地方の名前をつけて「さばんなトリオ」などとファンからは呼ばれていた。
 これに対し、第2期の主役として事前に発表されたのは、キュルル、サーバル、そしてカラカルの3人だった。かばんの代わりにキュルル──ここまではまあいい。そして、ラッキービーストの代わりにカラカルが入っている。

 この時点で違和感を覚えた人は鋭い。

 けものフレンズの第1期は、全てが計算され尽くして出来ている。さばんなトリオがかばん、サーバル、ラッキービーストなのは、監督の好みでもなければ偶然でも適当でもない。ちゃんと理由がある。
 ジャパリパークは「動物園」だ。あるいは、動物をテーマにしたテーマパークと言ってもいい。これはガイドブックなどでもはっきり述べられているし、エンディング画像のモチーフが遊園地なのもそのためだ。これはたつき監督の思想とは関係なく、当初からそういう設定である。
 その視点でさばんなトリオを見れば、何故この組み合わせなのかは明らかだ。かばんが「来園者」(すなわち我々人間)、サーバルが「動物」(フレンズ)、ラッキービーストが「ガイド」(あるいは飼育員)という図式なのだ。このいずれが欠けても「動物園」は成り立たない。来園者と動物だけで動物園は作れない。双方の橋渡しとなるガイド役が絶対に必要だ。
 アプリ版は違うって? アプリ版はテーマパークとしてのジャパリパークが機能している期間が舞台だ。それ故に、ガイドや飼育員は「訪れた先」に存在していれば事足りる。カコやミライがそうだ。けものフレンズ2はそうではない。パークが崩壊した後の物語である以上、ガイドが同行する必要があったのだ。

 故に、カラカルには、ラッキービーストと同じ役割は果たせない。カラカルはあくまでもフレンズであってガイドではないからだ。カラカルの存在感が薄いなどという揶揄もむべなるかな。同じフレンズという立場に立っている時点で、サーバルとキャラが被っているのだ。サーバルカラカルの友情がこの作品のテーマだと言われても、視聴者としては困惑しかない。彼女たちは「動物園」の「動物」だ。カバとサイが仲が悪いとか良いとか言われても、それは「来園者」には無縁のことだ。
 キュルルの行動がおかしいとか、サイコパスにしか見えないとか、そういった批判もここに起因する。ガイド(導く者)がいないせいだ。キュルルの行動は子供ならではの我が儘であり、それこそ「未来のミライ」のくんちゃんと似たようなものであるにも関わらず、それを窘めるものが存在しない。だから自分勝手な行動を取るのはいわば必然なのだ。導き手がいないというプロットを組んだ段階で、こうなることは決まっていたのである。

最後まで来園者

 来園者と、動物と、ガイド。そこには明確な違い、はっきりとした境界線がある。気紛れに役割がひっくり返ったりはしない。その意味では、かばんが人間で、サーバルがフレンズで、ラッキービーストが機械であるということにも象徴的なものを感じる。そこには期待される役割の明確な違いがある。
 しかし、第1期11話の極めて重要なシーンで、物語上の要請に基づき、かばんはこの役割の違いを乗り越える。ラッキービーストに向かって自分はお客さんではないと言い、ラッキービーストはそれを認め、来園者には本来認められない権限をかばんに与えた。来園者が当事者になったのだ。最終話は、それを踏まえた展開である。
 第2期最終話の、キュルルのあの集合イラストに、私は最初こそ腹が立ったものの、すぐに熱は冷めた。何故なら、キュルルは最後まで来園者のままでしかなかったからだ。かばんとは違う。「共に旅してきたガイド」がいない以上、いくら口でみんなを仲間だと言おうが、キュルルは最初から最後まで「お客さん」のままだ。
 もしかしたら、腹立たしいイエイヌやアムールトラの一件も、実は来園者キュルルを楽しませるためのアトラクションなのかもしれない。全てが終わったら、ああ終わった終わったといって、何事もなかったかのように皆家に帰るのかもしれない。
 パークのお兄さんやお姉さんに宛てられたイラスト。キュルルを中心にしたその構図は、ディズニーランドのキャストがゲストと写真を撮るそのままの構図だ。それは最終話終了後のイラストでも変わらなかった。

 前後の流れと無関係に、かばんとサーバルの別れのシーンをわざわざ挿入した製作スタッフは、前作監督が生み出したかばんというキャラクターをパージしたかったのだろう。しかしそれなら、サーバルではなくラッキービーストを再登場させ、その口からかばんにさよならを言わせない限り、目的は果たせない。ジャパリパークとかばんの関係性を定義していたのはサーバルではなく、ラッキービーストなのだ。ラッキービーストを時計扱いしてしまっては、前作の物語に区切りがつけられない。
 結局彼らは、前作のことを基本的なレベルで何も理解していなかった。折角の別れのシーンが、かばんの心の中にサーバルが生き続けること、かばんとキュルルの間には越えられない壁があることを、客観的に証明するだけに終わってしまったのだから、皮肉というほかない。前作を否定することすら、彼らには荷が重かったのだ。