3人の正義


 あちこちのサイトで絶賛されていたから、もし公開当時体調が良かったら劇場に観に行っただろう。ディスク化され、劇場でなくても見れるようになったので、今更ながら視聴してみた。

 いつもならここで折り畳むところだけど、どうしても言いたいことがあるので、折り畳む前に一つだけ。


スパイダーマン・ホームカミングを初めて見る人で、もし他のマーベル・シネマティック・ユニバース作品を見たことがないという人がいたら、まずそっちを先に見たほうがいい。少なくとも、アイアンマン、キャプテンアメリカアベンジャーズについては、見ていないとわからない部分がある」と。


 以下ネタバレにつき折り畳みます。











・この作品を評価するのは非常に難しい……。冒頭に書いたとおり、単体で「スパイダーマン」の新シリーズ第1作としてみた場合、極めて低い評価か、あるいは採点不能になるだろう。というのも、この作品は、単体ではまったく完結していない作品だからだ。


・冒頭から「キャプテンアメリカ3・シヴィルウォー」のスパイダーマン視点での自分の登場シーンの裏話から始まり、オープニングからエンディングまで、徹頭徹尾アイアンマンが登場する。つまりこれはスパイダーマンの物語であると同時に、アイアンマンの物語なのだ。いくらマーベルシネマティックユニバース作品でも、第1作の冒頭から他作品を前提にした物語を展開したのは、全員集合のお祭り作品であるアベンジャーズとこれだけである。


・今回のヴィラン「バルチャー」も、トニーに因縁のある存在であって、(アベンジャーズの悪役)チタウリやウルトロンの遺した道具を密売してたり、どっちかといえばスパイダーマンヴィランというよりアイアンマンのヴィランと呼ぶべき存在。ただ、実はヒロインの父親でした、という設定があるので、無関係ではないが……。


・加えてスーツはスターク・インダストリー製で、アイアンマン3以来のペッパーとハッピーまで再登場するとあっては、この映画はアイアンマンなんだかスパイダーマンなんだかわからない。


・これまでのシリーズでは、少なくとも1作目は他作品との関係は伏せて展開し、スタッフロール後のCパートなどでそれが匂わされる程度だったが、今回は完全に「アイアンマン外伝」である。これが「単体では評価不能」といった理由だ。


・しかし、つまらなければ駄作と切り捨てられるが、これをマーベル・シネマティック・ユニバースの1作品として見ると──悔しいことに、これが面白いのだ。


・特に、ネットの評価でも賛否両論分かれている部分だが、今作では主人公のピーターが蜘蛛に噛まれて異能が発現するシーンや、おじさんを殺されて使命感に目覚めるシーンの描写がない。ピーターは物語開始時点で糸が出せるし、メイおばさんは未亡人である。ストーリーが変わっているのではなく、存在しているはずなのに省略されているのだ。これはかなり思い切った決断である。そこを酷評している人もいる。そここそがスパイダーマンの面白さではないか、と。


・しかし、私はそこを省略した制作陣の意図も分からなくはない。リブートといっても、15年前のサム・ライミ版はともかく、アメイジングスパイダーマンからはまだ5年しか経っていない。たった5年で、蜘蛛に噛まれるシーンやおじさんが殺されるシーンを何度もやったところで……という思いがあったのではないだろうか。


・そこで、今作でははっきりと「アベンジャーズ」、そして「マーベルシネマティックユニバース」とスパイダーマンの関わる部分のみに描写を絞った、そう考えるとその意図がはっきりする。まるでアイアンマン外伝のような物語の作りも、ラストシーンでわかるように「アイアンマンの正義」と「スパイダーマンの正義」を対比させることが目的だと考えると、それは果たされている。


・シヴィルウォーでは、そこがはっきりしなかった。アイアンマンとキャプテンアメリカの正義は対立したが、ではそこで対立したのは「何」と「何」なのかというのが明確ではなかった。今作は違う。アイアンマンとスパイダーマンの正義がどう違うのかははっきりと描かれた。


・アイアンマンとキャプテンアメリカの正義は、それぞれに歪である。
 アイアンマンの正義は自分自身のためというより、集団のための正義である。アイアンスーツは国に引き渡さないが、自分のやっていることは安全保障の民営化である、と語る。ウルトロンを生み出してしまったのも、自分の目的のためというより、人類に役立つと信じて行動した結果だ。しかし、それによって敵対するヴィランの多くが、往々にしてトニー個人に因縁のある存在なのは皮肉というしかない。ゆえに彼は懊悩する。


キャプテンアメリカの正義は「個」の正義である。彼は自らの判断を他人に委ねない。そして、起きたことについては責任を負うという。しかし、彼は結果について悩むことがない。ソコヴィアで「市民の避難を最優先に」といい、自分の身を犠牲にして人々を助けながら、そこで死んでいった人々について、後で悩み苦しむことがない。矛盾しているようだが、彼は軍人だと考えると納得がいく。起きたことに対していちいち思い悩んでいたら戦場に出られないからだ。


・典型的なのが、仲間に対する態度である。ファルコンの時もそうだが、キャップは他人を仲間にしようとすることには慎重だ。できるだけ他人の力を借りずに解決しようとする。しかし、一度仲間になると、アイアンマンが残っているのに次元の門を閉じようとしたり、ブラックウィドウが捕まっているのに躊躇なく見捨てようとしたりする。彼は仲間に「自分と同様の覚悟」を求めているのだ。レッドスカルとの戦いで躊躇なく自分を犠牲にしたことと、仲間の犠牲を躊躇しないことは、彼にとって同じベクトルにある思考だ。軍人は他人のために自分が死ぬことも、他人の死で自分が生き残ることも当たり前だからだ。だからこそ、仲間を増やすことに慎重なのだ。
 トニーは違う。彼は社長であるから、有能な人間をスカウトすることにはまったく躊躇がなく、その代わり仲間に死の覚悟を求めることもなかった。ウォーマシンの犠牲は、彼にとって計算外の犠牲であり、だから彼はうろたえた。むしろローズ自身の方が淡々としているくらいだ。今作のスパイダーマンに対する態度は、その反省に立つものだとも考えられる。


・では、今作で明らかになったスパイダーマンの正義とは何か。それは原作と同じ「親愛なる隣人」としての正義である。アベンジャーズの正義に憧れ、アイアンマンの正義に憧れる彼が、最後の最後にアイアンマンの差し伸べた手を振り払った。彼は世界を救いたいのではなく、身近な隣人をこそ守りたい。そして、キャップと同様、アベンジャーズと決別した。アイアンマンとも違う。キャプテンアメリカとも違う。スパイダーマンだけがヴィランを殺さなかった。シヴィルウォーの展開は、映画と原作で異なったが、この映画をもって最後は同じ場所へと行きついた。3人のヒーローがそれぞれの道を歩むことを決めたのだ。


・つまり、今作は前2作とは違う視点で──アイアンマンという鏡に映すことで、スパイダーマンとは何かを浮き彫りにする作品だった。その目論見は成功している。この作品が完全に他ありきの作品でありながら、私が酷評する気にならないのはそのせいだ。


・その上で、アイアンマンのギミックが大好きな私としては、スパイダーマンにサポートAIがついたことや色々なギミックがついたことも大歓迎だったし、ヴィランであるバルチャーのわちゃわちゃした造形とかアクションも好きだった。要するに面白かったのだ。


・ただ、それはそれとして一見さん完全お断りであることは確かなわけで……だからこそ、私は評価に悩んでいるのである。