継戦能力の高さとは


 ドラクエウォークの配信者としては超有名という訳ではないけれど、この配信者の人の上の動画の考え方は私の考え方にちょっと似ていると思った──継戦能力を重視しているという意味において、だが。
 このゲームの有名な配信者の人達は「最大ダメージの高さ」とか、そういったもので装備を判断していることが多いけれど、他のゲームだとリソース辺りのダメージ効率っていうのも、結構シビアに考えられることが多い(FGOでいえばNP獲得量を重視するようなもの)。ただドラクエウォークに関しては何故か、MP当たりのダメージ効率やMPの回復効率というのを、それほどシビアに計算しているサイトとか配信者の人をあまり見かけない。これが昔からずっと不思議だったが、自分が時折実家に帰ってみたり、色々な所を巡ってドラクエウォークをしてみたりして、ようやく事情が分かってきた。やらないのではなくて、できないのだ。
 例えば私の自宅でいうと、近くに回復スポットがたまたま一つある。



 付け加えると、たまたま駅の近くなので、メガモンスターがかなりの頻度で湧くポイントも傍にある。この環境が当たり前だと思っていたら、実家に帰ってみたところ、自宅の周りに何もない。回復スポットもないし、イベントスポットもないし、もちろんメガモンスターも湧かない。どこでも強敵が一定時間ごとに湧く以外、本当に何もない。
 自宅の近くの回復スポットの有無だけでなく、移動せずに定点狩りをメインにしているか、それとも私のようにウォークモード中心(道端の回復スポットが利用できる)かによってもMP回復の状況は異なってくる。
 つまりどういうことかというと、MP効率を計ろうとしても、プレイヤーごとの環境が現実世界の地図やプレイ環境によって全然違うので、計算のしようがない。これは他ゲームであればまず起こらないことだと思うが、現実と連動しているというドラクエウォークの特徴だ。他のゲームでなら成立する攻略情報が、ドラクエウォークで成立しないということがしばしば起きる。これもその一つだ。
 鎧の魔槍のMP効率の高さは異常なので、これを使って永久機関ができるようにする、みたいな動画は時々見るけれども、じゃあその次にMP効率の高い武器はどれなのか、とかそういったものはなかなか判断しづらい。それは結局「プレイヤーごとにMPを回復できる環境が全然違うから」という理由だろう。それもまた、このドラクエウォークというゲームの面白さだと思う。

何故起用した

togetter.com


 この作品が駄作と呼ばれる理由には、押井監督の作品に通じるものがあると思っている。
 原作からの改変というのを多くのコメントが指摘しているが、ただの改変ではない。そこが押井監督に似ているところなのだが、要は「原作者が描きたいテーマと監督が描きたいテーマが正反対」というところが問題だ。



 模倣犯宮部みゆき氏は、原作において犯人を格好よく描こうという意図が全くない。特に後半はとにかく無様に、情けなく描いている。「犯人は最後に敗北し、その目論見は潰える」というのをこれ以上なくはっきり書いているが、映画版の模倣犯はそれと真逆になってしまっている。ある意味最後に犯人が勝つ展開になっていて、これは原作が描いているテーマとは真逆なのだ。この作品における映画化に際しての改変は、枝葉末節が違うとかそういうレベルの話ではない。
 これはまさに、攻殻機動隊アップルシードで、原作者である士郎正宗氏と映像版の監督の間に起きたことと同じだ。士郎正宗氏は、テロリスト側の見方、あるいはそれに寄り添った心情を描くということは全くしない人だ。アップルシード1巻でのシフォンの扱いなどを見ればわかるとおり、テロリストについては徹底的に突き放して描く。



 これに対して、押井監督は今でも学生運動にシンパシーを感じているような人であり、体制側に感情移入できないように作品を描く。つまり、劇場版攻殻機動隊の監督を押井監督にやらせるという時点で、原作のテーマを尊重した作品になるはずがない。完全なミスキャストだ。実は、かつてOVA版のアップルシードでも同じことが起きている。



 模倣犯も同じだ。原作を読んで、あれをピカレスクロマンだという人がいるだろうか。徹底的に悪役側には感情移入出来ないよう描かれている。あくまでも犯人を追及する側に感情移入するようになっている作品だ。
 その証拠に、模倣犯の映画化の後に作者が書いた後続作品「楽園」で「模倣犯の犯人がその後どうなったか」について言及している場面があるが、こちらでも犯人を徹底的に情けなく描き断罪している。それを見る限り、宮部みゆき氏が(内心で映画版のことをどう思っていたのかというのは別にしても)描きたいテーマは全く真逆だというのを読者に知ってほしいんだ、っていうのは嫌というほど読み取れた。もし映画版の主題に共感したのであれば、その後はそれを踏まえた展開にすると思うが、実際に描かれたものは映画版と正反対だったというのが、両者の関係性を端的に表している。



 私にはこの作品は、わざわざ原作をないがしろにするほどの価値があるように思えなかった。コメントでも散々言われているが、オチは投げっぱなしだし、結局この作品は、キャスティングを巡る大人の事情に引きずられてしまったようにしか見えなかったからだ。そういう意味で、この作品については、原作を好きな人ほど「とんでもない駄作」という評価を下さざるを得ないと思う。