疑似体験は「幻覚」ではない

 そういえば、昨日書いた攻殻のエントリを読み返してて、また押井版攻殻への怒りがふつふつと湧いてきた。思い出し怒りである(笑)。あの芸者アンドロイドが露骨にイノセンスの影響を受けてるように見えて、つい……。


 実は、劇場版攻殻でどうしても納得いかなかったシーンがある。PVを見る限り、ハリウッド版でもそのシーンはあるっぽいので、どういう演出になるのか半ば冷ややかに見守りたい気分だ。


 そのシーンというのは、トグサが一枚の写真を前に、清掃員の男性に向かって「その写真に写っているのは、誰と誰です?」と諭すシーン。山寺さんの演技がいいだけに残念だった。


 テロリストが清掃員に使った手法は「ゴーストに擬似体験を送り込んで記憶を捏造する」というものだ。原作ではもちろん、本人に写真を見せるシーンは存在しない。
 疑似体験は「現実世界にある物に、実在しないものを投射する/上書きする」技術ではないから、写真を見ても本人には「娘の姿なんて最初から見えない」はず。清掃員は幻覚を見せられてるわけではないのだ。あくまでも記憶という「曖昧なもの」を作られただけで、捏造である以上、物理的な事物とは相反する。
 もちろん原作ではそのあたりは考慮されていて、清掃員の「女房と子供」の物証、台詞や姿、写真、映像などを描写するシーンは一切ない。
 ところがこれが劇場版になると、清掃員は「自分と犬しか写っていない写真に娘の姿を『幻視』している」。捏造記憶に「娘の写真」があるのなら、演出としては「娘の写真を持っていたはずなのにどうしても見つからない」(もちろん現実には写真など存在しない)とすべきで「娘が写っていない写真を見て同僚に『ほら可愛いだろう?』と話しかける」のは、原作でいう「ウソ夢」じゃなく幻覚だ。

娘の姿はなぜ消えた?

 仮に、100歩譲って、人形遣いが清掃員の視覚をハッキングし、写真の上にありもしない娘の映像を描き出したのだとしよう。そこまで深く捏造記憶を刻み込んだのだとしよう。ならば、それはなぜ取調室のシーンで都合よく消えたのか。清掃員自身が「確かに写ってたんだ。俺の娘。まるで天使のように笑って……」と呟くということは、その場面ではもう彼に娘の姿は見えていない。
 しかし、トグサ自身が語っているように、ウソ夢を消す手段は「成功例もほとんどなく」また「お勧めもできない」。何より、まだ何の処置もしていない取調室のシーンではそのウソ夢はまだ消えていないはず。つまり、ゴミ回収のシーンで清掃員に娘の幻が見えていたのなら、取調室のシーンでも引き続き見えていなければ、ストーリーの整合性が取れないのだ。


 なぜこんなことが起こるのか? それは押井氏が「思い込みが現実を凌駕する」、あるいはそれに似たベクトルの思想を持っており、作品に反映させているからだ。イノセンス球体関節人形にゴーストが宿るなんてのはその延長線上にある。
 劇場版のクライマックスで、素子が思考戦車のハッチを開けようとして腕が千切れるシーンがある。アップルシードデータブックで「ブリアレオスにデータを入手された時点で、カイニスは負けている。銃撃戦はただの結果」と言い切る士朗氏なら、原作の素子にあんなことは絶対させないはずだ。思考戦車のカタログスペックにアクセスしていれば、結果は一目瞭然だからだ。
 監督は、清掃員が「娘はいると思っている」間は「娘の姿が見え」、「娘はいないと聞かされた」から「娘の姿が消えた」のだと言いたいのだろう。だがそれは、原作のどこにも存在しない描写だ。むしろ、劇場版が語るように「本当は娘などいない」と聞かされたくらいで捏造された記憶の影響を除去できるようなら、原作の清掃員の苦悩は存在しないと言っても過言ではない。


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