観てきました


 私はこれは、劇場版けいおん! のアンサーソングならぬ、アンサームービーだと思う。
 以下、激しくネタバレのため折り畳みます。




(以下、ネタバレあり)









 ネタバレといっても、のんのんびよりには原作がある。それも、けいおんのそれのように原作にまったくないエピソードを映画化したわけではなく、原作6〜7巻にある沖縄旅行のエピソードを映画化したものだ。とはいえ、全てがそのままというわけではない。原作を知っている人なら、上の2回目のPVに登場する少女が一体誰なのか、疑問に思ったのではないだろうか。
 原作付き作品の映画化で、しかもオリジナル要素の追加。失敗したら目もあてられない大惨事になりそうだが、この「のんのんびより ばけーしょん」については、成功、それも大成功だと私は思っている。

福引はどうなった?

 公開前に書いたとおり、今回の映画化にあたって、事前に私が一番疑問に思っていたのは、福引と搭乗前手続きのシーンである。ややこしい話だが、実は今回の沖縄旅行のエピソードのうち「デパートに買出しに出かけ、福引に当選し、旅行の準備をし、搭乗手続きをとって飛行機に乗り込む」シーンまでは、既にOVAで映像化されている。*1このため、これら全部をもう一度やると、話が重複する。
 どうするのかと思っていたが、一番シンプル、かつ常識的な取り扱いになったと言っていいだろう。「沖縄旅行に出発するのに必要な、買出しと福引のシーンのみ再映像化され、事前準備のシーン(空港での搭乗手続きを含む)は映像化されなかった」である。

同じ脚本家による、似て非なる劇場作品

 冒頭で、けいおん劇場版のアンサームービーに見えたと書いたが、もちろんのんのんびよりけいおんには直接関係はない。脚本家が同じというだけだ。しかし、両作品は非常によく似た、そして対照的な構成になっている。この類似点、対照的な点のなかには、原作の段階で既にそうなっている点も多いので、必ずしも脚本家の吉田玲子さんが意図的にそうしたという訳ではないのかもしれない。ただ、一番重要なポイントが、先述した原作からの改変点に関わるため、結果として作品全体がそういう印象になるのだ。
 念のために付け加えると、これはネガティブな意味では決してない。その反対だ。けいおん劇場版を思い起こして、のんのんびよりをもう一度見てみると、また違った楽しみ方ができるという意味である。
 分かりやすいのは以下のような点だ。


・旅行に出かけるきっかけ

 けいおんでは、クラスメイトが卒業旅行に行くのを聞き、自分たちも行きたいと言い出したのがきっかけ。積極的な理由だ。それに対して、のんのんびよりは福引が当たったからという偶発的な理由である。


・旅行に出かける面子

 けいおんでは、同じ高校3年生4人と、2年生1人の5人。保護者はいない。さわちゃんは途中で参加するが、保護者の役割は果たしていない。のんのんびよりでは小学生、中学生、高校生、社会人とバラバラで、うち2名は保護者である。れんげが一人で泳がないよう見守ったり、運転手を務めたり、保護者としての役割も果たしている。


・旅行先で出会った人間との交流

 ここが最大のポイントだろう。けいおんでは、旅行先で様々な人に会うが、特段交流はなかった。現地の人物は2回以上登場しない。それに対し、のんのんびよりでは、今作オリジナルのキャラクターである新里あおいが重要な役割を果たす。

 これは、どちらが優れているという話ではない。どこに力点を置くかという話だ。

 けいおんにおける卒業旅行は、唯を始めとする三年生のメンバーが、卒業にあたって、学校に残る梓に何が残せるかという、軽音部内部の人間関係における成長のエピソードであり、旅行はそのための媒介物に過ぎない。従って、旅先で出会った人物との心の交流を描写する必要性がない。
 のんのんびよりも似たような描き方をすることは可能だったかもしれない。例えば、旅立つ前に何かが起きることで、沖縄旅行をきっかけに、転校生である蛍に対して小鞠や夏海が何かできないか思い悩むとか。しかし、この作品はその道を採らず、「旅行先の民宿で働く夏海と同い年のキャラ」を登場させることで、現地のキャラクターとの心の交流を描いた。それはなぜか。

れんげではなく夏海だった理由

 ところで、何故あおいは夏海と同い年だったのだろうか。れんげと同い年ではいけなかったのだろうか。さすがに小学生を働かせるのは問題だから──というのは置いておいて。
 あおいを巡るエピソード、どこかで見たことがないだろうか。そう、これは原作17話、アニメ版4話の「ほのかとれんげのエピソード」の主客を反転させたものなのだ。
 夏休みに田舎に帰ってきたほのかと知り合い、遊び友達になったれんげの、原作では珍しくちょっとしんみりする話だったので、印象の強い人もいるのではないだろうか。17話ではほのかが来訪者であり、迎える側、見送ることになる側がれんげだ。そして今回は、あおいが迎える側であり、見送る側であり、夏海が来訪者である。
 あおいを巡る物語に、原作を壊すような違和感を覚えないのは、これが原作に既にある物語を形を変えて取り込んだものだからだ。その意味で「原作に忠実」だ。一般的な認識とは逆だが、原作に沿うためにこそ、新キャラを登場させたのだ。
 そして、これを踏まえているがゆえに、最後に「夏海が帰りたくないと泣いている」とれんげが指摘するシーンに、原作とまったく同じ画でありながら、物語上まったく違う意味が付加される。原作では「まだ遊んでいたい」という我侭を言う、いわば子供の証である演出が、劇場版では「あおいとの別れを惜しむ」成長のシーンに昇華されるからだ。しかもこれを指摘するのが、逆の立場で同じ体験をしたれんげ、という図式だ。このシーンを成立させるために、あおいの相手はれんげではダメなのだ。

 別れ際に、夏海があおいに向かって「校舎の写真を撮って送る」という。「また来ると約束する」では意味がない。なぜなら、呼応するれんげとほのかのエピソードのラストが「ほのかがれんげに手紙を書く」だからだ。これもちゃんと計算されているシーンだ。
 また、実に巧い演出だと思うが、あおいは最後に一滴の涙も流さない。彼女は子供だが、一人のプロとして客である夏海たちと接している。夏海にとって出会いと別れは特別な体験だが、あおいにとって客との出会いと別れは日常にすぎない。それがはっきりと描写されている。

 けいおんにおいて、唯が「梓に何かを残したい」と成長したように、のんのんびよりでは、夏海が「別れの約束された出会い」によって成長した。二つの作品は、正反対の方向から、同じものを描いている。「アンサームービーだと思う」とはそういう意味である。


 「のんのんびより ばけーしょん」は、原作の雰囲気を壊さず、既存の要素を上手く昇華して取り込み、劇場版ならではの作品として仕上げている。安心して観られる作品だった。

*1:なお、本編では旅行を描かず、番外編で事前準備のエピソードをやり、劇場版で旅行、という構成そのものが、けいおんのんのんびよりで共通している。