はじめてのテーブルトークRPG


 表紙でこのコーナー名を見た瞬間、こうなるんじゃないかと予想はしていたけど、全力で突っ込ませてもらう。


 エンターテイメント作品を楽しんでいて「どの選択肢も選びたくないなぁ」「僕ならこうするのに」と思ったことはありませんか?
 物語の主人公の行動を判断するのはGM、つまり人間です。決められた範囲内で物事を処理するプログラムと違い、プレイヤーの要望を聞いて、その場その場で判断することができます。当初の予定からちょっと外れたことを言われても、柔軟に対応することができます。

                      ヘ(^o^)ヘ いいぜ
                         |∧  
                     /  /
                 (^o^)/ てめえが何でも 
                /(  )    思い通りに出来るってなら
       (^o^) 三  / / >
 \     (\\ 三
 (/o^)  < \ 三 
 ( /
 / く  まずはそのふざけた
       幻想をぶち殺す

 TRPGの説明にこの定型文を使うのはいい加減やめてほしい。この種の「呪い」に、どれだけのGMが苦しめられてきたことか。
 わかりやすい例を挙げよう。

 「村の近くにゴブリンが出没するという噂を聞きつけ、冒険者が現場に向かおうとしたところ、山道の途中で身なりのいい女性が傷だらけの格好で倒れているのを発見した」という状況があったとする。

 ここで選択肢があるとすれば、それは「助ける」「助けない」となるだろう。コンシューマRPGなら選択肢すら出ることなく、問答無用で助ける展開かもしれない。
 さて、ここで「TRPGは自由に選択肢が選べるんだ!」と思っている初心者プレイヤーはどう考えるか。
 「襲う」だとか「身ぐるみ剥ぐ」だとか、コンシューマRPGでは存在しないであろう選択肢を「選んでもいいんだ」「GMが柔軟に対応してくれるんだ→GMには柔軟に対応する義務があるんだ」(往々にしてこういう状況下では集団心理が働き「より面白い」「より笑える」選択肢を選んだ人間の声が大きくなる傾向がある)。
 そしてこういう環境に慣れきったプレイヤーが、GMを裏をかいて困らせることを「GMと一緒に物語を作っている」と勘違いするようになる(ちょっと前のリプレイを見れば実例が嫌というほど転がっている)。
 逆にこういう状況に慣れたGMもまた、プレイヤーの裏をかこうとし始める(身ぐるみはごうとすると女性型ゴーレムが爆裂するとか)。こうなったらいたちごっこで一緒に物語を作るも何もない。

 GMが「倒れている女性」を出した時点で、それは「この女性を助けると話が進むよ」というサインだ。ということは、プレイヤーに許される選択とは「コンシューマーゲームには存在しない選択肢が選べるようになる」ことではなく、例えばコンシューマゲームでは「近くの泉から水をくんで来て女性に飲ませて介抱してやる」という演出となっていたとしたら、そこは「曲芸をして慰めてやる」だとか「親身になって話を聞いてやる」だとか「治癒の魔法で傷を治してあげる」等々自由にしてもよい、言葉を変えれば「手段」の部分で自由が許されていると解釈するべきだろう。
 登山で言えば、途中どんなルートを通っても構わないが、チェックポイントだけは通ってもらわないと困るのだ。いきなり山道を逆走して麓に降りたり、違う山に登り始める人までフォローはしきれない。GMは神様じゃない、人間なんだぞ!

 「どんな行動をしてもGMが対応しなきゃいけないなんて言い出すプレイヤー、いないだろ」と思っている人がいるとすれば、それは甘い。それは明日のエントリで詳しく触れよう。