慢心、環境の違い・前編

 先日来取り上げている伏見氏の言動をあちこちで見聞きするにつけ、心の底からふつふつと怒りがこみ上げていたのだが、先日ある人と彼について話し、少し考えが変わってきた。

 前にも言ったかもしれないが、私が最も危惧していたのは彼の裏づけのない無責任な言動によって、何らかの事件や事故が起き、その影響がTRPG業界全体へと波及してしまうこと、TRPGそのものが偏見の目で見られるようになってしまうことだ。それは義憤や正義感などではなく、極めて利己的な理由による。つまり私の好きな物になくなってほしくないという願いによるものだ。
 言うまでもなく、私のような趣味を持つ人間は、かつて宮崎事件などの時に、同じ──いや似たような趣味を持っているというだけで、まったく無関係の人間がとばっちりを受けてしまう前例を、嫌というほど見てきた。数日前にも「覚醒剤取締法違反の前科を持つ人間によってゲーム会社の人間が殺された無差別殺人事件」であるにも関わらず「現場の近くにゲームやアニメに親和性の高い施設があるから」という理由だけで、なぜか「加害者の背後関係にゲームやアニメがあるか精査する必要がある」などと根拠のないたわけたコメントを公の電波に乗せる馬鹿なコメンテーターが現れたくらいだ。

 伏見氏の行動はそんな過去の状況を知らないんじゃないかというくらい、慎重さに欠けているように私には見える。本人はそのつもりはないのかもしれないが、少なくとも周囲を安心させるに足るだけの情報は、まったく提示されていない。今回の彼の行動は、単に「またクソゲー作ってるよハハッ」だけでは済まされないと私には思えたのだ。
 とはいえ、伏見氏は批判者のアドバイスに耳を貸さないことを既に明言している。*1そもそも彼の行動は善意に基づくものであると思われるが故に厄介で、彼は今後も何を言われようと、正しいか間違っているかに関わらず、翻意したりスタンスを変えることはないのだろう。

本当にそれは「ゲーム」なのか?

 しかし、冷静になってよくよく考えてみたら、果たしてラビットホールドロップスはTRPGなのか?、という根本的な疑問が湧いてきた。
 少なくともルールブックにはTRPGである、と書かれている。しかし自称するだけで、例えばオセロや将棋の類似ゲームをTRPGだと呼ぶ人はいないだろう。
 そもそも、TRPGはTabletalkRolePlayingGameの略である。テーブルトークロールプレイングゲーム
 そう、ゲーム(遊戯)だ。
 ゲームとは、参加者が楽しむために行われる「遊び」だ。

 その後、「やっぱり自分が悪かったな。謝ってまた遊ぼう」となるでしょうか。
 「奴らとはもうやらないけど、他で遊ぶ……こんどの仲間には嫌われないようにしようと気をつけながら」とするでしょうか。
 あるいは「もうTRPGはやらないけど、自分が夢中になってミスったというのは判った」となるでしょうか。
 どの結果でも「支援」は成功しているのです。

 セッションは「失敗」してもいいのです。
 パーティ全員が楽しめなくてもいいのです。


 これを読めばわかる。最大の目的は「支援」であって楽しむことではない。遊ぶことではない。「ゲーム」は参加者が楽しむためのものだ。結果的に楽しめないことはあるかもしれないが、楽しむことを目的としない「ゲーム」などない。一度遊んだら二度と遊びたくなくなったことを「成功」と呼ぶゲームなんて、この世に他に存在するだろうか? 例えば、企業研修で社員研修の一環として行われる「ロールプレイング」をTRPGと呼ぶ人はいない。過去に、参加者が楽しむこと以外を第一目的としたTRPGはこの世に存在しなかったし、今後も存在し得ないだろう。


 つまり、ラビットホールドロップスは(制作者の意図を忠実に汲む限り)TRPGではない別の「何か」なのだ。


 そう考えたら、なんだか冷静な気分になれた。伏見氏がTRPGではない「何か」を使って偉業を成し遂げようが、大失敗をしようが、私にとっては別世界の話だ。もしそれによって不幸になる人が出たとしたら実に痛ましいことだが、疑似科学を振りかざして他人を不幸にする話など、世の中には他にもいくらだって転がっている。*2
 もし「ラビットホールドロップスでこんな事件が起きたよ! TRPGって実は危険な遊びなんじゃないの? どうなの!」と聞かれたら、これから私はにっこり笑ってこう言うだろう。


 「関係ないでしょう。ラビットホールドロップスはテーブルトークロールプレイングゲームじゃないですから」

*1:仮にも障害者支援や教育支援を標榜する人間が異なる意見に耳を貸さないことを明言するのはどうなのか、という疑問はあるがこの場では置いておく。

*2:本人が他人のアドバイスを聞く気がないのなら、なおさらどうしようもないだろう。