慢心、環境の違い・後編

 昨日の続きである。
 青春時代をブルーフォレスト物語ギア・アンティークと共に過ごした私としては、今の伏見氏の姿は涙なしには見られない。
「あの伏見氏が、どうしてこうなってしまったのだろう?」
 某掲示板などを見ていると、似たような感想を抱いている人は決して少なくないように思える。少なくとも上に挙げた二つのタイトルは、ありがちなファンタジーばかりが氾濫していた当時のTRPG業界に新風を吹き込み、一世を風靡した作品だったのだ。

青い森、今は昔

 そんな昔を回顧し、幾許かの寂寥とともにブルーフォレスト物語の初版ルールブックを十何年ぶりか開き目を通した途端、強烈な違和感が襲ってきた。
「あれ? ブルーフォレスト物語ってこんなゲームだったっけ?」
 一番わかりやすいのはシナリオだ。当時は面白いと思っていたのだが、今添付シナリオを改めて読み返すとどう見てもダメシナリオの見本のようなシナリオである。
 例えば、基本ルールブック添付のシナリオの概略はこんな感じだ。

 PCたちのいる(あるいは訪れた)村を悪い領主が支配している。その領主の陰謀で恋人を殺されたヒロインは、領主の悪事の証拠を集め、やがて来訪する予定の国の王女に直訴するため、PCに協力を依頼する、という話。これらの設定を与えられたら、貴方ならどんな展開のシナリオにするだろうか?
 実はこのシナリオには領主との対決シーンなどはない。証拠を揃えて姫に起訴すると、言い訳しようと近づいた領主を手ずから一刀両断。PCが苦労して集めた証拠で刀の血糊を拭き、放り捨てて「忘れよ、そして上を敬え」と言って去っていく、というのがエンディングだ。
「それは、圧倒的な権力の姿です」とシナリオの末尾近くには書かれている。

 今の私、そして今のプレイヤーならこう聞き返すだろう。
「だから何?」

 シナリオ上設定された障害を自ら排除することも出来ず、PCが苦労して手に入れた物は「ただ捨てられて何の役にも立ちませんでした」という、空しさだけが募る展開だ。プレイヤーは、封建制度国家の権力者が圧倒的な存在だったことを学ぶためにわざわざTRPGをプレイしているわけではない。
 これでプレイヤーにカタルシスを感じさせることはできるだろうか? このシナリオだけではなく他のシナリオも、プレイヤーに満足感を与えるのが非常に難しいシナリオばかりである。
 こう言うと「単純な勧善懲悪でないところがブルーフォレストの特長なのだ」と主張する人がいるかもしれない。だが、以前*1を取り上げたように、勧善懲悪のシナリオも、悲劇で終わるシナリオも、空しく終わるシナリオも、現実のどこかを切り取ったという意味では同じであって、そこには優劣も上下もない。空しさを感じさせるシナリオや悲劇が勧善懲悪よりリアリティがあるわけでもなければ、作品として優れているわけでもない。
 もちろん、勧善懲悪だけが全てだと言いたいのではない。例えば、天羅万象サプリメント「吸血姫」のシナリオなどは、バッドエンド確定シナリオだが非常に盛り上がる。盛り上がるための「仕掛け」がちゃんと用意されているからだ。クライマックスやエンディングでカタルシスを与えられないようなシナリオなら、他の部分でプレイヤーを満足させるだけのギミックやクオリティが必要とされる。非常にハードルが高いが、それができるなら素晴らしいシナリオとなるだろう。
 逆に言えば、以前りゅうたまのエントリで言及したように、強制的にバッドエンドになるようなシナリオでありながら、盛り上がるための工夫が何もなされていないシナリオは、ただ敵を倒すだけのシナリオよりも酷い最悪のシナリオのパターンの一つだと言える。

「絆」と「エゴ」

 誤解のないように付け加えると、ブルーフォレスト物語のシナリオが当時格別酷かったわけではない。他のゲームだって、当時はみんな似たようなものだった。その頃のTRPGは程度の差こそあれ、往々にして「そういうもの」だったのだ。
 私が覚えた違和感は、ブルーフォレスト物語がつまらないゲームだったということではなく、その後現在までの間にTRPGが凄まじい進化を遂げた、という事実に起因する。だから、当時は良作品だったとしても、今の視点から見れば決してよくはない。それを「あのゲームは面白かった」と思い出すのは、思い出補正以外の何物でもない。
 そして、伏見氏の抱える最大の問題はそこにある。
 カオスフレアのデザイナー、小太刀右京氏はこう言っている。

 u_kodachi
 しみじみと思うのは、去年のTRPGは一昨年より面白く、
 今年のTRPGは去年より面白い、ということです。
 なにもわからずプレイしていた頃の楽しさと、今の楽しさは雲泥の差です。
 そして、明日始めるあなたに、「今の楽しさ」をお届けするのが
 僕の仕事です。もっともっとTRPGを面白くしますよ!

 しかし伏見氏のTRPGの作り方は、20年前と変わっていない。TRPGを巡る周囲の状況は大きく変化し、TRPGも進化したにも関わらず、彼は当時と変わらないゲームの作り方をしている。しかも意図的に。作成時のPCが戦闘時に行動を選ぶことすらできないゲームを発売して「ココロのルールブックを参照してください」など言い訳することも、20年前なら許されたかもしれない。しかし今はそうではないのだ。
 
 では、20年前もゲームをデザインし、今もゲームをデザインしている井上ジュンイチさんや菊池たけしさんと、伏見氏と、何が違うのか? どうしてここまで違ってしまったのか?

 10年前の私なら、天羅万象のルールブックにある井上さんの言葉を引用してこう言っただろう。
「変われなければ、それは修羅」と。
 古い思いを振り切り、新しい自分へと成長していかなければならない天羅のPCと同じように、人は変わり続けることができなければ、人でない何かに成り果ててしまうのだと。私はこの言葉が好きで、自分が作った同人誌にもこの言葉を引用したことがある。
 しかし、今の私の心境は当時とは少し異なる。友人、仲間、同僚……。誰かが隣にいなければ、人は自分自身だけで変わることは容易ではない。

 伏見氏の不幸は「これはまずいですよ」「これは止めた方が良いんじゃないですか」と引き止めてくれる友人が誰一人側にいなかったことだ。井上さんや菊池さん、矢野さんにはFEARのメンバーがいる。グループSNEだって制作集団であり、ソードワールドのデザイナーは1人ではない。冒険企画局も同じだ。
 伏見氏はかつてFEARの手を跳ね除けて出ていった。同じブランクを持つデザイナーでも、藤浪氏は時代の流れを読み、仲間のアドバイスを聞き、それを取り込んで自分の中にあるものと融合させて新しいものを作った。伏見氏は耳を塞いで閉じこもった。

 井上さんはアルシャードサプリメント「ミッドガルド」の前書きに、こう書いている。
「僕は一度も、ただひとりでTRPGを作ったことはない。だが、それは僕の誇りだ。皆の力がそこになければ、望む人がいなければ、僕はTRPGを作り出せない。これがいかに素晴らしいことか、10年かからなければ分からなかった」と。


ミッドガルド

ミッドガルド


 また、井上さんと共著の形で「ビーストバインドトリニティ」を著した重信さんは、その後書きでこう述べている。
「ゲームデザイナーには、どのようなゲームを作るか。それで何を実現するかという強烈なエゴと、エゴだけで走ってどこかに飛んでいってしまわないための絆の両方が必要なのです」と。



 明暗を分けた一点は「絆があったか、なかったか」という点だ。井上さんの周りにいる人々と、伏見氏の周りにいる人々を比べてみればその違いは一目瞭然だろう。そして、ゲームデザインにおいて仲間からのアドバイスを得ていないだろうことは、素人ですら感じる疑問を当たり前のように放置していることからもわかる。「ココロのルールブック」なんてこの世界のどこにもありはしない。

最後に

 もう一度、ミッドガルドの前書きから別の言葉を引用する。

 D&Dの創造者ゲイリー・ガイギャックスには、何人もの協力者がいた。彼らは自分たちのために、仲間と楽しむために、すべてを作り出した。
 誰かを啓蒙しようとか、俺が望むものを与えてやろうとかそういう姿勢は微塵もなかった。

 そして振り返れば、歴史上に残り、多くの人に受け入れられたTRPGは常にそうであったのだ。

 それらは、愛好家によって育まれ、彼らの意見によって変化していった。それができないシステムは、時の流れに消えていった。


 これは、今からもう6年も前のゲームの前書きである。毎度のことだが、井上さんの慧眼には頭が下がるばかりだ。