
- 作者: アークライト
- 出版社/メーカー: 新紀元社
- 発売日: 2013/03/09
- メディア: 単行本
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RHD以降、TRPG関連で怒ることはなかったのだけれど、久しぶりにブチ切れた。
今回はかなり辛口なので、嫌な人は回避していただきたい。
ロール&ロール102号、小林正親氏によるバルナ・クロニカの記事から原文をそのまま引用する。
ファンタジーは、いつの間にか、冒険をしない物語となりました。
どこかで見た地図と神話の世界の中で、武器と防具と職業をすげ替えただけの登場人物が、集めると強くなるポイントを駆使して競いあう物語となりました。
囁き、たゆとう魔法の言葉は、笑って、ふざけて、カッコよく、内輪受けのパロディと共に叫ばれるようになりました。
昔はファンタジー世界の住人であった白銀の騎士や深刻な顔の魔法使い、竪琴を奏でる妖精たちはその姿を現すだけでプッと吹き出されるパロディ世界の住人になりました。
そして、ファンタジーは消費しつくされ、いじくり回され、ハッピーエンドが繰り返される「冒険をしない物語」となりました。
私もまた、かつては儚く美しかったファンタジーを食いつぶしてしまった世代のひとりなのでしょう。そしてこの『バルナ・クロニカ』は、そんな世代の作者が作った、ファンタジーTRPGのひとつだったのかもしれません。
我ながら不毛だとは思うのだが、逐一反論していこう。もちろん、筆者としては「私が言いたいのはそんなことではない」と主張したいかもしれないが、見当違いは承知の上で、この怒りをエントリにでもぶつけなければとてもやっていられない。ただ、見解はともかく解釈については、以下のように読んでいるのは私一人ではなく、特殊な解釈ではないとだけは付け加えておく。
まず冒頭の「ファンタジーはいつの間にか冒険をしない物語となりました」から。
これを主張したいのなら、最初に自分の考える「ファンタジー」そして「冒険」とはどんなものかを提示するべきだ。かっちりとした定義でなくても、イメージでもいい。しかし、彼は最後で「自分もそんな一人」であると逃げを打っているので、彼の作品「バルナ・クロニカ」も彼のイメージする「冒険」ではない、ということになる。彼のいう「冒険」とは、彼の頭の中にしか存在しない「幻の冒険」だ。他人の作品を「冒険ではない」とこき下ろしながら、同時に「自分の作品も冒険ではない」といって逃げるのは、卑怯者のやり口だ。
次に「どこかで見た地図と神話の世界の中で、武器と防具と職業を挿げ替えただけの登場人物」。
これは明らかに皮肉だが、具体的にはどんな作品のどんな場面を揶揄しているのか、ゲームのことを指しているのかどうかすらわからない。
かつて存在したファンタジー作品、指輪物語からストームブリンガー、コナンからファファード&グレイマウザー、ザンスに至るまで、既存の神話や地図をモチーフに使っていない作品などどこにもない。皆無だと断言してもいい。なぜなら、既存のそれらを参考にしなかったら、イメージの共有を図ることそのものが不可能となるからだ。この世界に存在するありとあらゆる「ファンタジー」が「どこかで見たような気がする、あるいはかつてあったものに似ている」ものだ。既存のそれらと一線を画し、もはやファンタジーとは呼ばれないクトゥルフ神話ですら既存のモチーフが絶無ではなく、彼の糾弾は的外れとしか言いようがない。
「集めると強くなるポイントを駆使して競い合う物語」について。
恐らく経験値のことを言っているのだろう。これに関してはちょっと複雑だ。ファンタジーや冒険というものの定義は一般的に確立されているわけではないが、どう定義するにせよ、そこに経験値やレベル制、定量的な成長要素というものは必須ではない。稀有な例を挙げてしまえば、TRPGのなかでも経験値や成長要素のないタイトル*1はある。
むしろ、経験値や定量的な成長要素はTRPGを「ゲーム」として成り立たせるためにこそ(必須ではないが)重要な役割を果たす要素だ、といえる。一回のセッションでプライズ(ゲーム内の金銭という意味ではない「報酬」)を得、それを次回使用し自分の分身を強化できるというのは「次の一回」を遊ぶための大きなモチベーションになる。翻って、もしデザイナーとしてそれが気に入らない主張するのなら、成長要素を超える「次回へのモチベーション」を用意し、成長要素を排除してそれを入れればいい。
ただし、これは声を大にして言いたいが、古今東西冒険物語で主人公やその仲間が「まったく成長しない」物語の方が珍しい。ポイントを集めると強くなるというのはただ「メタ視点」を持ち込んでいるだけだ。様々な経験や体験を通じて、物語の主人公たちは頑健な肉体や強靭な精神、そして仲間との強固な絆を得る。この何が問題なのか私にはわからない(もちろん、物語の中には何かを「失う」物語もあるけれども)。
そして「囁き、たゆとう魔法の言葉は、笑って、ふざけて、かっこ良く、内輪受けのパロディとともに叫ばれるようになりました」について。
内輪受けとはどこの内輪のことなのか。パロディとは何のパロディなのか。内輪受けやパロディをネタにしたTRPGもあることはあるが*2、ファンタジーを題材としたTRPGの多くは魔法をパロディとしても内輪受けの要素としても扱ってはいない。D&Dで魔術師がファイアーボールを放つのと、指輪物語でガンダルフが掲げた杖の光で「黒の乗り手」がひるむのと、なんら差異はない。そこにパロディや内輪受けの要素を感じるとしたら、それはあくまでも受け手、つまり冒頭の文を書いた人間の感性の問題である。
「昔はファンタジー世界の住人であった白銀の騎士や深刻な顔の魔法使い、 竪琴を奏でる妖精たちはその姿を現すだけでプッと吹き出されるパロディ世界の住人になりました」
少なくとも、私はブレイドオブアルカナでアダマス(騎士)が登場したところで吹き出すことはないし、バルナクロニカの作者が著したリプレイよりはブレカナの「まことの騎士」にこそ騎士道を見る。バルナクロニカの妖精族の記述はどうだったか忘れたが、ハイデルランドで語られるアステエル(エルフ)からは神秘性は失われていない。ガンダルフと同じようにコンラッドやサルモン・フィーストといった導き手からには威厳を感じる。
前項と同様、それがパロディにしか感じられないとすれば、それは小林氏の感受性の問題である。
「そして、ファンタジーは消費しつくされ、いじくり回され、ハッピーエンドが繰り返される「冒険をしない物語」となりました」
ここも非常に問題だ。
まず、TRPGをコミュニケーションツールと考えた場合、情報とイメージの共有という意味において、そのユーザーが多くあることにデメリットは少ない。彼はファンタジーを「消費」すると語るが、ファンタジーは「使われると消えてなくなるもの」なのか? そうではあるまい。むしろ「その存在を信じるものが少なくなるほどに魔法の力は失われる」というのは古来からのファンタジーのテーマのひとつであるはずだ。もし、ファンタジーが広がりを持ち、物語としてメジャーになることを「消費」と呼び「悪」であると規定するのなら、なぜ伝道者にあたる「TRPGのデザイナー」などやっているのかと言いたい。そして、それは他のデザイナーたちに対して非常に礼を失した話である。
ファンタジーも、物語も、そしてもちろんTRPGも、語られるべきものであり、広がりを持つものであり、たくさんの人間が知ることは悪いことではない。それをよくないものであるかのように語る人間には、クリエイターの資格はないと断言できる。
また、もし彼のいう「消費」が、「ユーザーが物語の持つ意味をよく理解せず、消化不良のまま次から次へと新しい物語に飛びつく」ようなことを指し示しているというのなら、我々ユーザーにとっては余計なお世話以外の何物でもない。
次に、ファンタジーも物語もTRPGも、広がる過程で変化するのは当然だ。ましてTRPGは何度もいうようにGMが物語を作るメディアであり、その時点で素材を自分なりに消化するのは必然である。それを「いじくり回す」などといちいちネガティブな表現を使うあたりに、心根が仄見える。いじられるのが嫌なら小説でも書けばいい。小説なら他人に加筆修正されることはありえないのだから。
そして最後の行の「ハッピーエンドが繰り返される「冒険をしない物語」」について。
ハッピーエンドになったら冒険ではないのか? 「大団円」を迎えたらそれは陳腐なファンタジーなのか? そんなのは暴論である。ホビットの冒険も指輪物語も、はてしない物語もハッピーエンドではないか。「あらかじめハッピーエンドが約束されているならそれは冒険ではない」と言いたいのかもしれないが、どんなTRPGのシナリオにもハプニングはつき物だ。ダイス運が悪ければバッドエンドもあるだろう。たとえばFEARのシナリオ支援システムは、セッションにつきものの「進行上の事故」をできるだけ減らすようにデザインされているが、それはメタな視点から見たコミュニケーション不全を防ぐためのものであって、決してハッピーエンドを強制されるものではない。
そしてこれも、冒険に託けてあれこれいうべきものではない。某氏のように「俺はバッドエンドがやりたい。PCたちが無力に打ち震え、プレイヤーが怒りで顔を赤くするようなバッドエンドこそ俺の求める冒険なんだ」と主張するのなら、まだわからないではないが。
かつては儚く美しかったファンタジーが、今は儚くも美しくもなくなったというのは、それ自体が“幻想”だ。ファンタジーは消費されたら消えてなくなるようなものではなく、冒険も今も昔もそこにある。問題があるとすればそれはあくまでも受け取る側の問題だ。
冒険を、ファンタジーを、ネガティブにしか捉えられなくなった人間にデザインされたゲームこそが不幸だ。驚くべきことに、紹介した文は「序文」であり、本文はさらにとんでもないものである。次はその話をしたい。