犯人は本当にD&Dなのか

魔法にシステムは必要か ― 西洋ファンタジー界に起こりつつある異変


 この記事を読んだ第一印象だが、正直言ってD&Dがちょっと羨ましかった。日本で同じ主旨で記事を書く人がいたら、きっとソードワールドアリアンロッドを挙げる人はほとんどおらず、恐らくファイナルファンタジードラゴンクエストの名前を挙げるだろうから。

 さて、それはさておき、魔法にシステムは必要か? という疑問についてだが、ことTRPGに限るなら「必要」以外の答えは出てこない。D&Dが魔法をシステム化したのは単なる気紛れなどではなく、必要があったからそうしたのだ。
 というより、筆者自身がその理由を文中で述べている(訳文がほぼ完全に正しいと仮定しての話だが)。

 数量による公平さとチームの育成を気にかけるのは、ゲームの論理だ。魔法にゲームの論理を当てはめてはいけない。だってこれは魔法なんだから。


 これは、ことD&Dに関しては筆者が間違っていると断言できる。D&Dはゲームだ。ゲーム内の魔法は、魔法である以前にゲームでなければならない。だから、D&Dの魔法にはゲームの論理を当てはめるのは当然なのだ。
 例えば、プレイヤーの立場になって考えると、ファイアーボールの呪文を唱えても「毎回何が起こるかわからない」のなら、誰もそんな呪文を唱えないだろう。魔法使いをプレイしようという人もいない。ゲームである以上、魔法はルール化されなくてはならないのだ。
 実は、魔法を魔法らしく再現するため、魔法に(ダイスを振る以外の)乱数要素を持ち込んだり、意外性を持ち込んだりするゲームはある。欧米製のTRPG(筆者はまったく触れていないが)では「混沌の渦」、日本製のTRPGだと古くは「ローズトゥロード」「変異混成魔術師の夜」「ウィッチクエスト」「駅前魔法学園」などがそれに当たる。しかし、残念ながら主流にはなっていない。単純に、プレイしにくいのだ。私の記憶にあるのは特に混沌の渦なのだが、非常に魔法が使いづらい。しかもプレイヤーが魔法を使っていて楽しくない。暗殺者が襲ってきた時、頭の上に隕石が落ちてくる確率と心臓発作で倒れる確率のどっちがどれだけ高いかなんて議論、やってて全然面白くないのだ。
 ウィッチクエストや駅前魔法学園はここでも紹介したとおり「何が起こるかわからない」魔法の雰囲気を上手く再現していると思うが、それゆえに処理が重く、どうしてもゲーム中での比重が高くなる(つまり「全員魔術師のゲーム」でもないと、他のプレイヤーが暇になる)。

 ところで、この記事を読んで私が非常に疑問に思った点がある。
 TRPGにおける(PCが使用する)魔法システムは、ゲーム中に登場するファンタジー要素を全て説明するためのものなのか? という点だ。

 例えば「空中に逆さに浮かぶ城(ダンジョン)」が登場したとする。これを見て「おい、ふざけるな。そんな魔法ルールブックのどこにも載ってないだろう。そんな城はあり得ない!」というプレイヤーはそんなにいるだろうか? 大方は「あ、ファンタジーだしそういうこともあるよね」といって納得するのではないだろうか。具体的な例を挙げるなら、ブレイドオブアルカナの北狄バーヴェは「自分の人間としての心を宝石に変えて自分の親友に渡し、冷酷な女王に変貌した」という因果律に関わる設定を持っているが、ルールブックのどこにも自分の心を宝石に変える魔法など載っていない。
 ルールブックにシステム化された魔法が記載されているからといって、それを外れた魔法を登場させてはいけない、というルールはTRPGにはない。

 神秘的で、馬鹿げていて、奇妙で、めちゃくちゃカッコいい魔法を見せてほしい。

 ならば、GMならいくらでもそれを表現できるはずだ。プレイヤーに好き放題やられては困る場合もあるだろうが(シナリオの展開が制御不能になりかねないので)。例えルールブックに水中呼吸の魔法が載っていなくても水中に浮かぶ城を登場させていいし、上半身がアヒルで下半身が鮫のNPCを出したって一向に構わないはずだ。
 ただ、もしそれがシナリオの解決に必要な事象なら、プレイヤーは「なぜ?」と理由を聞いてくるだろう。その答えを用意しないのはアンフェアだ。「この展開に理由はありません、なぜならこれは魔法だから、筋が通っている必要はないのです」という説明は答えになっていない。魔法の筋は通っていなくてもいいが、TRPGがゲームである以上、シナリオの筋は通っている必要がある。
 これもそんなに難しいことではない。筋の通らない「魔法らしい魔法」はシナリオの展開と無関係にしてしまえばいいだけだ。先述の「上半身がアヒルで下半身が鮫」なのに何故か人語を解するNPCがシナリオに登場するとして、その姿や設定がシナリオの解決にまったく関係ないのなら、プレイヤーは「ああ、これは雰囲気付けね」ということでそれ以上深くは突っ込んでこないだろう。そこに理由や根拠、法則性はいらない。

 極論になってしまうが、この記事の筆者が求める「魔法」に近い処理をプレイヤーの立場で行うことが可能なのがトーキョーN◎VAの判定システムや、ダブルクロス3rdエディションのイージーエフェクトのようなルールではないだろうか? 前者は「判定優先、演出後付」であるため、判定の結果ルール上与えられる結果さえはっきりしていれば、演出はどうとでもできる。つまり演出だけならいくらでも「神秘的で馬鹿げていて奇妙でかっこいい」行動が取れる(ただし、どんな演出をしようがルール上の結果にはなんら影響を与えない)。後者はこれを推し進めたもので、ルール上の効果は「ない」とルールブックにはっきりと書かれている。しかしルール上の効果さえ及ぼさなければシンドロームのイージーエフェクトの効果から想像できるいかなる演出も許される。どのような使い方をしてもいい。
 最初に戻るなら「TRPGである以上、魔法の『ルール』にはゲームの論理が必要だ。しかし、ルールに影響を及ぼさない『魔法』であれば、どのように想像力を働かせてもいい」、これならTRPGでも十分に取り扱える範囲である。

 ことTRPGに限っても、ファンタジーの魔法がまるで科学のようで魔法に見えないというのはどちらかといえばプレイスタイルの問題であって、ゲームそのものの問題ではない。ましてやファンタジー小説の魔法がシステマチックなのはD&Dのせいだと弾劾されても、それはその作家の姿勢に起因するのであって、TRPGになんら罪はない。ガイギャックスもきっと天国で困惑していることだろう。

 ただし、日本のファンタジー、つまりファイナルファンタジードラゴンクエストという歴史と歩んできたファンタジーについては、TRPGにまつわる事情とはまた異なる事情が存在しえる。TRPGと違い、コンピュータRPGの「魔法」は「演出が自由」でもなければ「GMが想像力を働かせる余地」もないからである。それ自体は、私は必ずしも悪いこととは思わないのだけれども……。