ペルソナ5考察

カロリーヌちゃんに蹴られたい by 松竜 on pixiv

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『ペルソナ5』は、タロットで言うなれば“星”の物語。ディレクター・橋野桂氏が初めて明かした、『ペルソナ3』以降の作品と“タロット”の関係とは?


 星……星かぁ。うーん……。個人的な印象としては、今回の物語は「星」っていうより「刑死者(吊られた男)」って感じだったんだけど……。


 以下、ストーリー面のネタバレありの考察……と言えないほどの駄文。先輩と話してて気づいたこととか色々。












(この先、ストーリー面のネタバレがあります)










 今回一番論議を呼ぶ(あるいは呼んでいる)のは「『改心』は『洗脳』なのか?」ってことだろう。

改心か、洗脳か

 前作ペルソナ4は、仲間たちが自分自身の精神/マヨナカテレビへと踏み込み、自分自身の心の負の面、つまり「シャドウ」と相対してこれを克己し、我が物とすることで自らの「ペルソナ」を発現させるというのが基本的な図式だった。そこでは、シャドウと戦うのはあくまでも「本人の意思」によるものであり、他者に強制されるものではなかった。
 ところが、今作の「異世界」はそうではない。今作は「本人が望まないのにその精神に踏み込み、シャドウを打倒してオタカラを盗み出す」ストーリーになっている。この結果性格の豹変が起きているので、これは「洗脳」ではないか? と、一見するとそう見えなくもない。

 しかし、第一印象はともかく、作品全体を俯瞰すると違う図式が浮かび上がってくる。少なくとも、「4」でも後半のダンジョン「ボイドクエスト」「天上楽土」「禍津稲羽市」は、本人が望まないのに踏み込んだダンジョンである。しかも、この3つともシャドウを打倒している。逆に「5」でも、「フタバパレス」は本人が望んで他者を招きいれたダンジョンだ。

 では「改心」は「洗脳」か? 実はこれ、もちろんフタバパレスの下りでも語られているのだが(双葉がジョーカーに洗脳されていると思う人は少ないだろう)、むしろメインストーリーというより、サイドストーリーで補完されているようなのだ。具体的には例えば「皇帝」喜多川祐介のコープ。ここで語られる班目は、マダラメパレスの時のような俗物でもなく、かといってメインストーリー終盤のような考えることを放棄した無気力でもなく、紛れもなく祐介が当初師事し、尊敬していた班目の姿そのものだ。
 そして祐介の描く絵画は「光と闇の共存」。パレスに現れるシャドウ/暗黒面も、意外にも見える善なる面も、等しくその人物の一部なのだ、というのがコープのストーリーではっきりと語られる。
 「月」の三島由輝も似たような物語だ。怪盗団は結局、三島のシャドウには手を出さなかった。しかし三島は自身の善なる面を呼び起こす。

 つまり、オタカラを盗んで改心を促しているのは、前作でいうところの「シャドウを倒してペルソナを呼び出せるようになる」行為に類似した、あくまでも「シャドウに相反する、本人が元々持っている善性を蘇らせている」だけなのだと考えられる。

 では、なぜそれが洗脳に見えるのかというと、これは物語の要請によるものである。つまり「パレスに踏み込んでオタカラを盗み出す」行為に主人公としての正当性を与えるためには、必然的に「パレスの主が他の手段では更正を望めない人物であり、しかも主人公たちが追い詰められている」ことが必要である。そのため「パレスの主は極悪人」にせざるを得ず、善性が目覚めるとギャップが激しいため、まるで洗脳しているように見えてしまうのだろう。

シャドウを倒すか、オタカラを盗むか

 さて、ここで一つの疑問が湧いてくる。「マヨナカテレビと今回の異世界が同種のものだとするなら、前作でマヨナカテレビに踏み込まれた者たちは『改心』したのか?」である。
 これは微妙な問題だ。生田目や足立のその後を考えると「事件について自白しているから改心した」のだと言えなくもない。ただ、少なくとも周囲の人間が異変を感じ取っていないことからすると、「5」でいう改心ほどの変化はないのだろう。モルガナが劇中で述べたとおり、オタカラを実体化させてそれを盗むというプロセスがないと、シャドウを倒すだけではあそこまで劇的な豹変は起こらないのかもしれない。
 ただ、作中では「オタカラは盗むが本人のシャドウとは一切接触しない」というパターンはなかったので、盗む行為単体にどれだけの効果があるのかはわからない。カモシダパレスでモルガナが口にした内容が正しければ、相手が死ぬかもしれないほどの影響、ということになるのだが……。