会長がこんなところに


 回想シーンのほとんどが変態ムーブで、新キャラなのに存在感がありすぎる……。
 配役を見て「みどりんの声はとても鷺沢文香と同じ人には聞こえない」と思ったけど……そういえばこの声、ネトゲ嫁のアプリコット(会長)の声だ(笑)。

ホーリーわかる


 「雑魚の真ん中でホーリーするのが楽しい」わかる。
 最初は「ヒーラーなのに攻撃魔法?」と思ってたけど、ある時野良であったタンクの人に「もっとホーリーを使ってほしい」と言われて使い始めたら……面白かった(笑)。ポポナさんは火力を重視してるみたいだけど、私にとっては範囲スタンの効果の方が重要だ。
 特に、IDで敵を集めまくっちゃうタンクの人と組むと、開幕でものっそいゴリゴリHP削れるんで、範囲スタンで一拍置いてからリジェネとか、それで間に合わなければケアルラとか。耐性がつくからスタン効果があるのは2~3回だけど、それだけあれば十分に体勢は整えられる(逆に言えばそれでも無理ならPullした敵が多すぎるってことだし)。

 あ、イドラ? ごめん、そっちはよくわかんないや(笑)。

30年越しの結末(ネタバレ注意)

天涯無限 アルスラーン戦記 16 (カッパ・ノベルス)

天涯無限 アルスラーン戦記 16 (カッパ・ノベルス)


 1986年の第1巻上梓より31年。アルスラーン戦記、完結。


 書店にコミック版が置いてあるのを見て「そういえば原作はどうなったんだっけ?」と思って探したのが発端だ。
 とりあえず、評価は置いておいて。長かったな、というのが感想だ。完結は諦めていた読者が大部分ではないだろうか。
 で、評価。酷評……にはなるんだろうけど、アマゾンレビューとかネットの意見とかと、私の意見はちょっと異なる。というか読み終わってみて、何故これを気にしている人が少ないのか不思議だったくらいだ(私の探し方が悪いのかもしれない)。


 まず、文章そのもの。さすがに大御所だけあって、読めなくはない。かなり覚悟してたんだけど、魔法戦士リウイの最終巻とかとはやっぱり比べ物にならない。まぁ、目が滑るようなら読み終わる前に捨てるコースだから、「読めるからこそ」ではあるんだけど。
 ただ、文章から感じるパワーというか、熱意のようなものは格段に落ちている。銀英伝の時代から作者の売りでもあった心を打つ比喩表現(フレデリカの慟哭を「海竜」と評するような)は鳴りを潜め、代わりに目に付いたのが31ページ下段7行目や96ページ上段10行目のような「視点不明のメタ表現」だ。かつて作者はこれを後世の歴史家などに仮託して語ることが多かったが、それすらしていない。このメタ表現、他の作者も使うことがあるが、作品の底が浅く感じるので私は好きではない(私がなろう小説を苦手とする理由でもある)。


 次に、ストーリーについて。レビューやネットの意見で多かったのは「登場人物をあっさり殺しすぎ」というものだったんだけど、それに関しては私はあまり気にならなかった。世間の前宣伝どおり、アルスラーンと十六翼将はほぼ全滅することが事前に分かっており、この小説のページ数が決まっている以上、そして前巻までに死ななかったキャラの数を考えれば、一人一人の描写が薄くなるのは必然だ。キルヒアイスの死と比べる意見もあるが、あれだって物語の前半に死んだから登場人物に与えた影響の描写が手厚くされたのであって、濃い描写が希望ならもっと前に死んでおくべきだったって話になる。

 私が気になったのは違う点だ。最後まで読み終わった私は思った。「これ、第1部の物語が成り立ってなくね?」と。

 アルスラーン戦記の物語は、「アルスラーンが解放王として後の世で称えられている」という大前提で成り立っている。十六翼将にしても、アルスラーンが称えられているから名が残っているのだ。
 ところが、ネタバレになるが、この物語の最後でアルスラーンは死んでパルス王国は滅びる。奴隷を解放したから解放王と呼ばれたと作中にはあるが、解放した奴隷ごとシンドゥラに吸収されてしまっている。最後に王が死ぬ物語として、作者がアーサー王伝説を意識したかどうかは知らないが、アーサーの物語は父のユーサーとともにブリテンを統一した偉業から伝説となっている。対してアルスラーンは、王太子の時代からパルス王国は存在し、版図を広げるわけでもなく、内乱の末、これを滅亡させてしまった王である。後世の人は何故彼を称えたのか? 蛇王ザッハークを倒したから? 政治家としての功績を残さず、国を滅ぼしたけど、魔王を倒したから英雄、というのでは、それこそなろう小説と変わらなくなってしまう。

 そのアルスラーンの「後継者」の話。これが本作で一番重要で、かつ納得のいかない部分だ。
 アルスラーンに子がいないことは、今までも散々語られていた。が、アンドラゴラスアルスラーンの間にも血縁関係はない。つまり血縁関係は王権の正当性を証するものではない。で、本作ではそれに代わり、宝剣ルクナバードの使い手であるかどうかに正当性を依っていた。
 そして、本巻のラスト近くで、アルスラーンは「ルクナバードは人造兵器ザッハークを掣肘するために魔導師が作った兵器である」と喝破する。それ自体は(白ける人はいると思うが)別によい。
 ところが、ザッハークと相討ちになって死に瀕したアルスラーンは、エラムに「ルクナバードを抜け」といい、エラムがこれを抜けないと「ルクナバードを抜ける人間を探せ、それまで宝剣を守れ」と言い残す。

 ──いやいやいや、おかしいよね? ルクナバードはただの対ザッハーク用の魔道兵器なんだよね? ナルサスが散々語ってた「王としての資格」と全然関係ないことが分かったわけだよね? そのザッハークは目の前で死んでるよね? なんで死にそうになってまでルクナバードにこだわるわけ?

 作者自身の旧作と比べても、帝国の行く末に言及したラインハルト、後継者を指名して死んだカルマーンに対して、パルスの行く末について「自分が死んだら暗黒時代になるな……」と言うだけ言って死んだアルスラーンは「ハァ?!」って感じ。エラムを後継者に指名して、ギーヴファランギースに補佐しろって言えばいいじゃない。同じナルサスの教え子でしょう? 勢力は大幅に減退したとしても「パルスという依りどころ」を残しておくのが大事だったんじゃないの?
 ラスト、キシュワードの孫がルクナバードを抜いた下りに至っては、乾いた笑いしかでなかった。そも、自国内に自治領と称して数万の勢力を放置するラジェンドラも、第1部の頃の「抜け目ないけどどこか憎めない」人物像とはかけ離れ、物語の都合に動かされてる印象しか残らない。

 どこで歯車が狂ったかといえば、やっぱりエトワールが死んだところだと思う。
 叙事詩では死ぬべき人間と死ぬべきでない人間がいる。最後に残った者を考えると、ファランギースは死ぬべきで、エトワールやアルフリードは死ぬべきではなかった。なぜなら、エトワールやアルフリードは「次代の人間」、つまり未来に繋がる人間だからだ。北欧神話におけるラグナロクでも、新しい世代の神は死なない。
 死人の多寡は問題ではない。銀英伝でカーテローゼが地球教徒に捕まって死んでいたり、ヒルダが死産していたりしたら、あの余韻の残るラストシーンはなかっただろう。つまりそういうことなのだ。

 30年の時間で、設定を持て余した。そう評されても仕方がない。そう考えると、自分の筆力が落ちないうちにシリーズ最終作を書き上げて金庫にしまい、自分が死ぬまで発表するなといったアガサ・クリスティはやはり尋常ではない慧眼だったのだろう。