字幕版だけ


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 前に見たのは字幕版だったので、この週末に吹替版を見に行こうかと思ったんだけど、もう字幕版しか残ってないのか……。先週の末には錦糸町で吹替版をやっていたのだが。スーパーマリオの映画がもうちょっと先だったら、多少ロングランするぐらいの人気はあったような気がするけど、タイミングが悪かったかな。
 この間マリオの脚本を分析したからという訳ではないが、映画版ダンジョンズアンドドラゴンズの脚本は凄くよくできていると思った。私がとても好きなシーンが2つあるのだが、2つともネタバレになるので、一応折り畳むことにする。













 1つ目のシーンが、冒頭の「監獄から釈放されるかどうか審議されるシーン」だ。あのシーンが挟まることで「主人公のエドガンたちが冒頭のシーンに至るまでにどのような来歴を辿ってきたか」というのが自然に説明されるようになっている。もちろん全部セリフで説明することにはなってしまうものの、シーンがシーンだけに、主人公が自分の身の上の詳細を語っても、話の流れとして全く不自然ではないようにできている。
 過去の作品で見たものとかだと、例えば収監されると牢仲間に身の上話をしたりとかそういったシーンが挟まることが多い。それとこの仮釈放を求めるシーンとどこが違うかというと、このシーンでは「主人公が本当に真実を喋ってるかどうか」というのが観客にとってわからない。そこまでのエドガンの印象からすると、ここでは釈放されたさに嘘の来歴を話している可能性がある。つまり「信用できる語り手」かどうか疑いつつ見ることになる。
 もう一つこの視点を補強するものとして「ジャーナサン評議員の参加」がある。この評議会のシーンでは、エドガンがジャーナサン評議員の所在についてやたら拘ることが強調される。観客としては、エドガンがジャーナサン評議員を買収しているか、あるいはジャーナサン評議員はもしかして主人公の昔の仲間だったのではないかというような疑問を持ちつつ物語を追っていくことになる。
 ところが、実際にはジャーナサンと主人公たち2人には全く面識がない。観客が「あれ?」と思った途端、2人はジャーナサンを抱きかかえて窓に突進し、外へ飛び出す。さらにジャーナサンを煽って空を飛ばせ、脱獄に成功する。
 つまり逆にいうと、あれだけジャーナサンにこだわっていたのに、大事だったのは「鳥人間の種族」ということだけで、別に顔見知りでも何でもなく、恩赦に繋がるような重要な情報を握っていたわけでもないという訳で、観客がいい意味で肩透かしを食うのだ。
 しかもこの身の上話をするシーン、映画を最後まで見ると実は全てが真実で、さらに主人公の没落の原因となる「妻を殺された原因の引き金を自分自身が引いた」という伏線が、ちゃんとこのシーンで張ってある。つまりよくよく見ていれば、後々なぜ主人公が娘にあれだけこだわるのか、奥さんを死なせたことにあれだけ自責の念を抱いているのかというものの納得がいくようにできている。


 2つ目が魔法破りの兜を巡る一連のシーンだ。ヴィランであるフォージが宝を隠し持つ、宝物庫の封印を破るために「魔法破りの兜」が必要だが、それを扱うためには主人公たちのうちの1人、魔法使いのサイモンが「兜の試練」を乗り越える必要がある。
 これはメタ的に見れば「サイモンは試練を乗り越えてこの兜を使えるようになるんだろうな」と思うんだけれども、主人公は性格的に成功を強要するタイプではなく、失敗を許容するタイプだ。
 というわけで、途中で別の策を考えようという話になる。よくある脚本としては、ここで考えられる第2のプランは途中で挫折することが多いだろう。なぜなら、この魔法破りの兜の試練を乗り越えるというイベントは、物語的に考えて、サイモン自身が絶対に乗り越えなければならない試練だからだ。これが失敗のまま物語が終わるということは、よほどダメな脚本でない限りあり得ない。
 ところが、予備として用意された第2のプランは「宝物庫に運び入れられる宝物に、マジックアイテム『ここ・そこの杖』の魔法をかけて、宝物と外部を次元の扉で繋ぎ、そこから宝物庫に侵入しようとする方法」で、こちらもかなり詳細に描写される。
 ただ、予備プランが成功したらサイモンの試練は無用になりかねない。見ている側に疑問符が浮かんだところで、これ自体が次の伏線になっていることがわかる。
 つまり「魔法破りの兜で開いた宝物庫の中」と「宝物が実際に保管されている場所」が異なる──持ち逃げするために宝箱が移送されていることに気がつくのだ。正直、これはすごい上手いと思った。ただ単に「悪役が宝物を運び出そうとしている場面に出くわす」というよりも、遥かにうまくできている。
 当初やろうとしていたプランが努力の末に成功し、かつ予備のプランも成功することによって、主人公たちが当初得ようとした情報以上の予期せぬ情報が得られるという、これまた秀逸なプロットになっている。展開的には全く不自然ではないにもかかわらず、見ている側としてはこの展開は全く予想できなかった。