高低差1800mはキツいなんてもんじゃない


 ドラクエウォークで富士山麓の水族館に行った時、ただバスで周囲を回っているだけでも相当な距離、かつ上り下りがキツいというのが感じられたので、あのルートを自転車で行くというのは尋常じゃなく大変だろうと思う。しかも、動画の雰囲気だけ見ると、琵琶湖一周に比べて必ずしも自転車乗りに配慮されている様子が感じられず、車の往来と混在していて物理的にかなり危険そうな感じがする。そんな中周回を完遂したことには感服の一言しかない。
 ちなみに、完全に見終わった後になって気がついたんだけど、どうして富士山を一周したのかと思ったら、名前に引っ掛けてたのか……(笑)。

ダンジョンと街とでは……

 さて、実は昨日のエントリは、リプレイの発売日を見ていただければわかるとおり、しばらく前に書いたものである。かなり長いエントリになってしまったため、ああでもないこうでもないとあちこちを直している間に時期を逸してしまい、そのままお蔵入りにしようか迷っていたエントリだ。それをこうして衆目に晒すことを決めたのは、この本を読んだからである。



 今日も(昨日ほどではないが)辛口かつ長文なので折り畳む。嫌な人は回れ右で。














 この本を読み、冒頭から思わず笑ってしまった。最初のシチュエーションが「街で通りすがりの困っている人間を見捨てるとバッドエンドになる」というシチュエーションであり、説明文には「冒険者の矜持」という言葉が出てくる。麻薬のレシピを横流ししたグラランズや、めんどくさいからと屋敷を燃やすプレイヤーに是非読ませてやってほしい。
 後書きを読む限り、この本が執筆された理由は、かつてあったシティコレクションやアイテムコレクション、モンスターコレクションに相当する書籍が今はなくなったからというのが大きな理由のようだ。

 本シリーズを思いついたきっかけは、初心者さんとTRPGを遊んでいた時のリアクションを見て、でした。「きみたちは魔物を退治する依頼を請けて、その棲処である洞窟までやってきた。入り口の中は真っ暗だ。さぁどうする?」みたいな状況説明をしても、結構な確率で「……どうしよう?」といった雰囲気で、固まってしまうのです。
 最初は、「なぜだろう?」と思っていました。けれど、それは単純に。「異世界でどう行動するのが普通なのか」ということを知らないからだと気づいたのです。
 それと、まだ日本のTRPGが黎明期だった頃は、「こんなときは、こうしよう!」みたいな本や読み物が結構存在したのですが、最近はあんまり見かけません。
 だったら、「楽しく異世界を冒険するためのガイドを作ろう!」と思い立ったのです。
(本書348ページ)

 
 そもそもTRPGの黎明期に存在したグループSNEのコレクションシリーズ、あるいはその他の出版社から出ていたTRPGの初心者向けのガイドブックが出なくなった理由は、需要がなくなったからだと私は思っている。そういった知識が必要ないというのではなく、そういった知識はタイトルごとに異なるので、ファンタジーRPGという一般化した形の書籍を出しても、適用されないタイトルが多くてあまり役に立たず消えていき、そういったノウハウはルールブックに書かれるべき、という流れになったというのが私の認識だ。
 非常に分かりやすい例が、この本のシチュエーション15に存在する。この項は死者の蘇生をテーマにしているが、死者の蘇生を行うのが死霊術師、ネクロマンサーというクラスになっている。死人が出た時にネクロマンサーに依頼して蘇らせようと試みるエピソードだ。

 死者を蘇生する魔法は,、多くの場合、神の奇跡──神聖魔法の領域というケースが多く見られます。特に西洋のファンタジー作品では、その傾向が強いと言えるでしょう。
 これは、我々の世界における最も有名な「死者が蘇った例」が、それこそ神の奇跡であるため、違和感なく受け入れられる内容なのかもしれません。一方で東洋では死者は「穢れ」であり、その蘇生は聖職者である邪法であり、往々にして失敗し、よい結果を招きません。
 西洋風のファンタジー世界でも、死者を起こすことを偉大な奇跡の神の奇跡ではなく、自然の摂理に反する魔法として行う者、死霊術師(ネクロマンサー)と呼ばれる者たちが存在していることもあります。
(本書241ページ)


 ──という書き方をしているが、言うまでもなく一般的なTRPGで多く採用されているシステムは前者である。ソードワールドTRPGは東洋風のTRPGでないにもかかわらず「死は穢れである」という世界観であり、一般的なファンタジーRPGのあり方とは乖離している。西洋風のファンタジーでありながら、死体の操作ではなく死者の蘇生をネクロマンサーが行うというシステムは他に寡聞にして聞かない。
 にもかかわらず、これを一般例としてシチュエーションを作ってしまっているので、この章は他のゲームには全く適用できない内容になってしまっている。ちなみに私が最も一般的なTRPGとして真っ先に連想するのは、世界で一番プレイヤーが多いダンジョンズアンドドラゴンズだが、もちろんこの項の記載は適用できない。他にも、例えばルーンクエストの場合かなり様相が違うし、アリアンロットやブレイドオブアルカナでは、死者の蘇生というもの自体が存在しない。


 このように、ファンタジー世界を一般化して語ろうとしても、今のTRPGではそれが難しい。依頼を神殿で受けるアリアンロッド、文明レベルそのものが違うアルシャード。同じD&Dというタイトルでも、エベロンフォーゴトンレルムではまた異なるものだ。


 そして、この本の内容を参考にソードワールド2.5のセッションを進めるのもまた、かなり難しい。というのも、何度も書いているように、ソードワールド2.5には都市での冒険に必要な、対人交渉を用いた情報収集に関連するルールがないからだ。
 何故ルールがないと、この本の内容をセッションで使いづらいか。ルールがある場合、この本に書かれている内容はあくまでも「参考資料」となる。ここに書かれていることを参考に行動することは別に悪いことではない。知識としてプレイヤーが持つことももちろん悪いことではない。しかし、ソードワールド2.0でこの本の内容を前提にセッションを行うと、この本の内容を知っている人間と知らない人間、あるいは内容を覚えている人間と覚えていない人間の間で知識の格差が起こる。
 ルールが存在するなら、全ての知識の上にルールが存在し、ルールによる裁定がセッションにおける最上位に置かれる。しかしそのルールがないと、この本の記述が全てになってしまう恐れがある。例えば、酒場でのシチュエーションに「酒場の客に奢るのは最強にして最良の手段」などと書いてあるけれども、それはゲームによってあるいは状況によって、必ずしも正しいとは限らない。ミスタラ世界の砂漠のド真ん中にある、イラルアム首長国で同じことが言えるだろうか。あるいはエルフの国アルフハイムではどうだろう。
 また、情報収集には対価を支払えと書いてある箇所がこの本で複数箇所あるが、これがまた裁定が非常に難しい。必要な情報に対して適正な対価の基準を決める必要があるからだ。
 自分自身の財産が減るとなるとプレイヤーは出費を惜しむのが普通だ。では情報を得るために適正な使用経費とはどれぐらいに設定すべきか。一般的に考えると、依頼主から前金として預かった金額については、必要経費として情報収集に使用するのが適正だろう。しかしプレイヤーキャラクターとしてはこれを値切りたいだろうし、この適正値がいくらかというのはソードワールドのルールブックにはどこにも書かれていない。どのような情報にいくらが払うのかを正しいのか、基準がルールブックに設けられていないのだ。
 なので、人質の子供を取り返すための情報に銀貨100枚を払うのが適正なGMもいるだろうし、銀貨1万枚を要求するGMもいるだろう。どちらも間違っているとは言えない。最大の問題は、ここで必要とされているのがプレイヤーキャラクターの知識ではなく、プレイヤーの知識となるという点である。プレイヤーキャラクターの能力が全く考慮されないのだ。これもまた結果として100or0なので、どのような裁定をするにしてもプレイヤーに納得感は少ないだろう。


 では、ルール上対人交渉や情報収集がシステム化されているゲームではどのように表現されるか。この本に書かれている知識はフレーバーテキストとして取り扱うことになる。酒場で他の客に向かって酒を奢ってもいいが、それはあくまでも判定に対してせいぜいボーナスをつける程度であって、その他は雰囲気づけで、ルール上の効果は及ぼさない。そうすればプレイヤーとプレイヤーキャラクターは完全に切り離されるし、プレイヤーの知識格差も問題はなくなる。知っているか知らないかによって有利不利が生じないからだ。セッションに彩りをもたらすために、この本の内容をGMがセッションに活かすのも良いし、プレイヤーが自分のロールプレイに活用するのも良いだろうが、この本に書かれた知識を知らないとセッションにおいてプレイヤーキャラクターが不利になるというのは不公平だ。
 繰り返しになるが、そもそもこの本は一般的なファンタジーRPGについてのみ書かれるべきではなく、ソードワールド2.0に特化された内容について書かれるべきで、さらにこの本に書かれているシチュエーションにおける対応は、全てルールに規定されており、GMがルールに基づいて判断し裁定が下せるというのが前提でなければ、この本の内容を十全に生かすことはできない。この本に書かれていることは決して誤りではない。死者の蘇生に関する部分以外では参考になる記述ももちろんある。もちろん、プロの冒険者闇市で模造刀を掴まされ、実戦で使うまで剣を鞘から抜くことが一度もないなんていう昔のゲームブックのようなシチュエーション*1は論外だとしても、だ。
 しかしこの本の内容が参考になるものであるあればあるほど、この本を読んでいるかどうか、あるいは内容を知っていて活用できるかどうかによってプレイヤー間の知識格差は広がり、それをセッションに適用するのは不公平という状態になる。これはソードワールドが今の形を取り続ける限り、決して逃れられない矛盾だ。


 そのはずだったのだが……(明日のエントリに続く)。

*1:後書きで執筆者を見て納得したが……。