面白いけど同意はできない


 過去にも似たような題材の漫画はいくつかあった。今回もタイトル買いして読んでみて、面白かったし、「レトロゲーは今のゲームと同じように面白いものだ」という意見には力強く同意するが、1点だけ賛同できない部分もあったので、それについて書く。
 よくある話ではあるが「『この世にクソなゲームなど一つもない』というのは本当か?」という話である。
 ちなみに本作の描写はこうだ。

 見ず知らずの他人の子供をディスるのはただの悪口。そんなの誰も聞きたくない。
 一時期大流行した、ネットのクソゲー吊し上げ大会が衰退したのも、結局は同じ理由。

 あえてクソゲーなどと呼ばなくてもいい。語らずともいい。
 なぜなら、この世にクソなゲームなど一つもない。


 ……本当にそうだろうか。クソゲーという言葉は、使ってはいけない言葉なのだろうか。私はそうは思わない。
 そもそも、クソゲーという言葉を使っている人たちは、この言葉を憎しみを込めて使うというより「ちょっと尖ったところがあって、一般受けしにくい、変わったゲーム」くらいのニュアンスでこの言葉を使っているように見える。「クソゲーを作った製作者は〇ね」などと声を荒らげるのは、某社の社長くらいだろう。
 また、クソゲー吊し上げ大会が衰退したというのは本当だろうか。ここも賛成できない。レトロクソゲーを取り上げた動画が数日で10万回以上再生されるご時世である。昔より今の方が、この言葉は人口に膾炙していると思う。
 そして、時代の進歩によってクソゲーとの接し方も変わっている。かつては、もし対象のゲームを持っていなければ、それを取り上げた雑誌やインターネットの記事でしか、そういったゲームに接する機会はなかった。記事は執筆者の主観から逃れられず、執筆者が悪く書けば、それが真実でなくても、悪いゲームになってしまう可能性があった。
 しかし時代は変わり、レトロゲームが専門店で売られ、購入者が気軽に動画をアップロードできる時代になった。スペランカーは「主人公が落ちるとすぐ死ぬと記事に書いてあるからクソゲー」なのではなく、どういう状況で落ちたら死ぬのか、死にやすい部分以外はどういったゲームなのか、動画の形で実際のゲームを見ることができ、主観に左右されない、客観的なゲームの内容を把握できる。
 そして世の中には「自分でプレイするのは御免蒙るが、人がそれをやりながら右往左往するのを見るのが楽しい」類のゲームというのも存在するし、また同時に「そういったゲームを面白おかしく遊ぶのが得意な人」もいるのだ。今の時代の「クソゲーの楽しみ方」である。
 「主人公がひ弱だからクソゲー」「2人だけで一揆を起こそうとするなんてクソゲー」。そういった評価は一見ネガティブに見えるが、クソゲーとして語られることすらなかったなら、これらのゲームは埋もれ、忘れ去られ、続編が出たり復刻したりすることはなかっただろう。
 悪名は有名に優る。しかもこの場合の悪名は、必ずしも憎まれる悪名ではなく、思い出と共に苦笑いしつつ愛されることすらある悪名だ。優れたものだけでジャンルを構成することはできない。クソゲーすらないジャンルからは名作も生まれない。玉石混交あってこそ、そこから名作が生まれることもある。そして、他者の経験から学ぶことができるのは、人間の特権だ。
 クソゲーと名作は、コインの裏表。この世に「語らずともいいゲーム」なんて存在しない、と私は思う。