ソード・ワールドQ&Aの光と闇


 昨日のTogetterのコメントでソードワールドQ&Aの話が出たので、久しぶりに当該粉塵爆発(本書においては「炭塵爆発」)のページも含めて読み返してみたんだけど、いや……これ本当ヒドい(笑)。この本自体、功罪両方あると思っているのだが、個人的には功より罪の方が大きかった。功の部分は言うまでもなく「プレイヤーから寄せられた疑問に対して回答をしていること」で、罪の部分は「回答内容に不適切な部分があること」だ。
 以下、例によっていつもの辛口評価なので、一応折り畳む。














 まずは話題になっている粉塵爆発そのものに関するQ&A。こちらは本書の317ページに記載がある。「炭塵爆発はあるの?」という質問に対し、回答としては「炭塵爆発という現象は存在するが、PCには原理がわからないので起こすことはできない」という回答で、これそのものは問題ないが、よりによって文末に「現象が存在するからGMはトラップとして使える」って書いてるんだよね……。これは本当によくない。
 粉塵爆発をプレイヤーが意図的に起こせないとするのであれば、GMもトラップとして利用できないとすべきだ。理由は簡単で、トラップとして設置者が意図的に発生させることができるなら、同じ状況を再現して敵を粉塵爆発に巻き込もうとするプレイヤーがいてもおかしくないからだ。恐らくプレイヤーの質問の意図もそこだろう。「世界のどこかでそういう現象は起きているかもしれない」という程度ならともかく、トラップとして登場させていいと回答しながら、プレイヤーにだけ利用できないとするのはアンフェアだ。
 「現象は存在するが起こせない」で回答を終えておけばいいところを、何故その後に余計なやり取りを付け加えたのか。システムに関する質問なのだからシステマティックに回答すればいい話だ。
 このQ&Aに限らず、ソードワールドQ&Aブックには似たようなやり取りが散見される。ソードワールドQ&Aブックという本の自体が、清松氏と水野氏、それと恐らくは清松氏のアバターであるみーちゃんという人物の3人の鼎談という形で、質問に対して答えていく形式なのだが、その水野氏が後年、クリスタニアでまさに「プレイヤーには理解できるがPCには理解できない現象をGMが利用する──ジャイアントスラッグが鍾乳洞を溶解させたことで村人が酸欠で死ぬ、という現象を起こして、結果的にPCにバッドエンドを強要する」というシナリオを作ったことを考慮すると、マスタリングに対する姿勢という意味で非常に示唆的なQ&Aだと思う。


 他にも、例えば255ページには「セージ技能で料理ができるか」という質問がある。これに対して「無理です」と一旦答えておきながら、その後に「セージ技能で料理を作ろうとしたら、包丁で手を切る、その辺に材料や調味料を散らかす、手際が悪いので煮すぎてしまうなど、いろいろな失敗を起こすでしょう」とあるが、この後段も必要と思えない。単に「できない」という事実にこうした説明を公式で付加してしまうと「じゃあ包丁で手を切れないようにすればいいのか」とか「材料や調味料を他の人間が準備しておけばできるのか」とか、そういった反論が出てくる可能性があるからだ。


 また、179ページには「砂漠でストーンブラストという呪文が使えるか」という質問に対して「無理だ」と答えた後に「砂漠には石がないから」と答えている。しかし、少なくとも現実世界においては、石が存在する場所が砂漠と呼ばれているケースはある(むしろそういった砂漠の方が多い)。プレイヤーからそういった反論を受けたらどうするのか? これも同じで、「石がないから無理」ではなく「無理」だけでいいのだ。


 こういったやり取りの中で、当時一番話題になっていたのが175ページの「ピュリフィケーションの呪文で血液を真水にして相手を殺せるか」という質問だ。これに対しても「できません」だけではなく「相手の体内は生命の生命力が強いからできない」という説明が付加されている。これも上記と同じで「じゃあ、生命の精霊力が低い状態を作れば、ピュリフィケーションで相手を殺せるのか」という余計な話が生まれてしまう。こういったやり取りは、シナリオのストーリー形成に全く寄与しない。むしろその後の「本音を言えばゲームバランスが崩れるから」という部分の方が理由として適切だし、表に出すべきだ。余計な解釈の余地も生まれにくい。


 そもそも、この本のQ&Aの大半は「○○できるか」という質問なのだから、回答は「できるorできない」だけでいい。実際、CD&Dなどではルールに関するQ&Aなど見開き2ページにまとめる程度であって、わざわざそれ単独で単行本を出したりしない。では、何故この本がこういった形で出版されたかというと、当時ドラゴンマガジンのリプレイに付属する連載記事として掲載されていたからだろうと思われる。
 しかし、それによって結局参照性が低くなり、実際のセッションで使おうとすると目次で各項目を探さなければならない上に、ルールブックの他にこの本自体を持ち歩かなければならなくなるというのは、明らかに本末転倒である。
 こういった評価は後年生まれたものではなく、当時からあった。だからこそ、当時のプレイヤーの印象に残り、出版から25年以上経ってもこうして話題に上るのだ、と私は思っている。