未完の作品なんてない

 森氏が同書の中で述べていることをかなり乱暴に要約するとこうなる。


 インターネットが発達し、書評サイトや個人のブログなどで作品のネタバレをされることが多くなった。そのため、ネタバレされると致命的なミステリなどは非常に書きづらい状況にある。
 そのため、売れるために作品を書く森氏としては、作中で解かれることのない謎や、いかようにでも解釈できる結末、あるいは正解を用意していない難解な用語などを使い、ネタバレされても問題ない作品を書くようになった、と。


 これが、私が一番納得のいかないところだった。


 本を読む前に、その本について書かれた書評サイトを見て中身を確認してから買う人間がどれだけいるだろう。面白いか面白くないか、評判くらいは確認するかもしれないが、ミステリものの本を買うのに真犯人をネットで見て確認してから買う人間はほとんどいないだろう(また、そういう人は結末を知っていても作品を楽しめる人だ)。
 つまり、ネットの書評サイトがネタバレをするから〜と理由を挙げているがそれは必ずしも大きな理由ではないと思われる。その部分を除くと、こういうことになる。


 作品を売るために、作中で解かれることのない謎や、いかようにでも解釈できる結末、あるいは正解を用意しない難解な用語などを使うようになった。


 実際に小説が売れているのだから、森氏のスタンスとしてはこれは正しい執筆姿勢だといえる。しかし私にとっては、それは作品と認め難い。スカイ・クロラを読んだ時に感じたのがまさにこれだ。つまらないのではない。私には評価できないのだ。
 売るために複数の解釈が可能な筋書きや結末を使うという今の流れのはしりは、(旧)エヴァではないかと思う。また、今でいうとABなども似たような製作姿勢を感じさせる。


 以前「フラジール」というWiiソフトのエントリでも書いたが、登場人物にとって解けない謎が残るのは一向に構わないが、読者に解けない謎が残るのは、作品として描写が足りないといわざるを得ない。読者に解釈を委ねたといえば聞こえはいいが、作者自身がちゃんとした筋書きを作れなかったことへのエクスキューズではないかという気がしてしまう。
 いやそうではない、ちゃんとした正解はあるがあえて書いていないだけなのだ、というのならなおさらのこと。作者自身の手によって結末20ページ分が破り取られた本を読んで、面白いとかつまらないとか、私には言えない。
 私が本やゲームに求めていることは、爽快感やカタルシスであり、話の展開に納得いったという、ストンと落ちる気持ちだ。なんとなく訳もわからないもやもやだとか不快感だとか、そういったものを求めて作品に接しているわけではない。
 読者に解釈を委ねた作品や、結末がちゃんと描かれない作品は心にも記憶にも残る。当然だ。あるべき物がないのだから印象に残るに決まっている。だけどそれは、決して作品として高く評価されるべき印象の残り方ではないと、私は思う。

 
 なにより森氏自身も言っているではないか。「作品を読んだ後、何も残る必要はない」と。


 もちろん、それを面白いと感じる人もいるだろう。だから、万人にとって森氏の作品がつまらないというつもりはもちろんない。ただ、森氏の作品はどうやら私の好みには合わないようだという、それだけの話である。