誰がために戦う


 先ほど述べたように、通常TRPGにおいてはシナリオの目的というものが存在する。目的がなければプレイヤーはどう行動したらいいかわからないからだ。
 そして、目的が提示されれば普通プレイヤーはその目的を達成するために行動する。(*2)


(*2)シナリオをわざと失敗させるべく、あるいはGMを困らせるべく目的と相反する行動を取ろうとするごくごく一部のプレイヤーを除けば(姫を助けてこいといわれて酒場を燃やしたり依頼人や姫を殺害しようとする、昔ルーニーと呼ばれていたプレイヤーに近い存在。昔は多かったが今は少ない)。


 そもそもシナリオに目的を用意するのは、プレイヤーがバラバラな行動を取らないよう、シナリオの方向を一つに収束させるためなのだから、全員が目的を達成しようとするのは自然な流れだ。
「バッドエンドの物語が好きだ」という人を時折見かける。しかし、そんな人でもTRPGのセッションにおいては、シナリオの目的を達成すべく行動することがほとんどだ。バッドエンドが好きだからといって、シナリオを失敗させバッドエンドにするべく他のプレイヤーの足を引っ張ったりすることはまずない。作者が形作った物語を一方的に受け取るだけの小説やマンガと、卓内の合意やGMとの意思疎通が常に必要とされるTRPGは、根本的に事情が異なるのだ(コンピュータゲームは感情移入の度合いからいってその中間辺りになるだろうか)。
 中には自分のPCに悲劇的な死を迎えさせようとするプレイヤーもいるが、シナリオで設定された目的を達成した上で自分のPCだけがそうするというのなら、それは先述のバッドエンドの条件からは外れる。


 人は、何のためにTRPGをプレイするか? いや、TRPGに限らず、ありとあらゆる趣味において、人は何らかの達成感を得ることを目的としていると言っていい。スキーでもテニスでも釣りでも山登りでも同じだ。滑り降りた達成感。相手に勝った達成感。頂上に登った達成感。


 TRPGにおいての達成感とは、GMが用意した障害(モンスターだったり罠だったり謎解きだったりする)を乗り越え、GMが提示した目的を果たすことにある。もちろん自分のキャラクターをロールプレイすることに達成感を得る人もいるだろうけれど、それだけを求めているのであればなりきりチャットで用は足りる。TRPGをプレイするということは、ただ演じるだけではない、その場にいる全員で一つの物語を作るという達成感を求めている人がほとんどだろう。
 しかし、GMがシナリオの目的を提示しておきながらそれを達成させるつもりのないシナリオ、つまりあらかじめバッドエンドを想定して作られたシナリオというのは、プレイヤーが得る達成感を著しく殺ぐ。それでいて、なおプレイヤーにその展開を納得させ、そのシナリオがいいシナリオだったと思わせるためには、殺いだ達成感を上回る満足感を与えなければならない。


 例えばクトゥルフの呼び声TRPGや深淵のセッションのように、バッドエンドが予定調和となる物語もある。しかしそれには卓のコンセンサスが必要だ。ある意味で、遊ぶシステムを選んだ段階で卓のコンセンサスを求めているのも同然だが(まさか、クトゥルフの呼び声TRPGでニャルラトホテプやアザト−スを討伐できると本気で思っているプレイヤーはいないだろう!)。まして、システムが原則としてバッドエンドを想定していない(*3)にも関わらず、あえてセッションをバッドエンドで終わらせ、しかもプレイヤーに納得してもらうのには、相当な物語の完成度が必要とされる。


(*3)私が考える「原則としてバッドエンドを想定していないシステム」とは、シナリオの目的を達成することに経験値を与えるシステム全てだ。FEARのシステムはもちろん、SWなども全て入る。なぜなら、あらかじめセッションが失敗する可能性が高いと想定されているのであれば、目的を達成できないことを理由に経験値を減じることはデザイン上どう考えてもアンフェアだからだ。


 私は前に、エンゼルギア2ndエディションのルールブックの次の記述を賞賛した。


 「AG2」にはあらかじめ“死の運命”が設定に織り込まれているキャラクターも多い。キャラクターの死を描くことは“戦争”を描くために必要なことでもあるだろうが、NPCの死は時に強すぎるショックや不満の元となる。

 NPCの死を描く、と心に決めた場合、ハンドアウトやアクトトレーラーで予告するのがよい。「彼女の運命は如何に?」といった問いかけでなく、ちゃんと予告すること。

 PCの判定や行動の結果でNPCの生死が左右される場合はどうか。「PCたちの行動によって生死が決まる」とした場合、基本的には成功、つまりNPCを救うことを目指してシナリオを作るべきである。

 NPCの死は、戦争や運命のせいであって、プレイヤーの責任にしてはならない。

 プレイヤーを騙したり罠にはめたり、成功の確率の低い判定によってNPCを死に追いやることは、プレイヤーにとってフェアではない。(後略)


 まさにこの通りだ。セッション内で逃れようもない悲劇的な描写をするのであればプレイヤーの責任でないことがはっきり分かるようにすべきだし、それがシナリオの達成条件でないのなら、物語としてバッドエンドであっても今回私が述べているバッドエンドの条件には合致しない。
 もし、その悲劇が「プレイヤーのせいで起きたのだ」とするバッドエンドのセッションを行うなら、相当な覚悟をもって挑まねばならない。
 GMが自分の視点で「このバッドエンドは事前にコンセンサスを得ている。卓内の合意が得られている」と思っていたとしても、それがまったく共有されていないことは十分にありえる。

 自慢するつもりはまったくないが(*4)、私はこれまで何百回、もしかしたら千回を越えるTRPGのセッションを遊んできた。今回の条件にあたる「バッドエンド」のセッションも何度も何度も経験してきた。
 しかし、心底納得がいったバッドエンドのセッションは、たった1回しかない。1000分の1である。


 そのセッションとは、中村やにおさんの「グッド・ビズ」である。


(*4)むしろこれだけやって何故こんなに下手なのかと今でも忸怩たる想いにしょっちゅう駆られる。