3DダンジョンRPGへの憧憬・ダイナソア

 当時、イースソーサリアンといった既に人気のファルコム製RPGがあったにも関わらず、私が「ダイナソア」を選んだ理由は単純だ。イースソーサリアンはアクション要素があり、表示遅延が起こる液晶ノートではプレイするのがきつかったのである。いわば消去法的にダイナソアを選んだわけだが……今思えば、あのダイナソアのパッケージをよく手に取ったものだと思う。



 だって、この絵だよ?

 昔は登場キャラクターのイラストをパッケージに配するゲームばかりではなかったとはいえ……ちなみにこの絵はいわばイメージイラストで、実際に登場するキャラクターはいない。かろうじて右端のキャラクターが敵キャラのトリトニラに似ているものの、作中では甲冑を着て登場するキャラなので「たまたま似ただけ」という可能性も捨てきれない。真ん中に立っている人物も、どう見てもストーリー上のキーキャラクター「ヤール王」とは似ても似つかないし……。言うまでもないが、主人公メンバーのうち一人もこのパッケージにはいない。

 しかし、3Dダンジョンが苦手な私をひきつける魅力がこのゲームには確かにあった。虚無感漂う退廃的な世界、陰鬱なストーリー。それは今でいう「救いのないゲーム」というのとは少し違う。昔のファンタジーっぽい匂い、泥臭くてカッコ悪く、全然スタイリッシュではない、独特の雰囲気があった。

 ストーリーに関しては、バッドエンドという意味じゃなくてとにかく暗い。主人公たちが不幸になるからではなく、世界全体がそういう雰囲気なのだ。どこへ行っても誰と話しても「滅び」を意識せずにはいられない(理由は最後にわかる)、それが貫徹している。
 よく言われるのは「裏パーティ(ゲーム中特定の条件を満たすとパーティメンバーが本来と違うメンバーになる)のストーリーに救いがない」というものなのだが、私が感じたのはむしろ逆だった。裏パーティは表と共通のメンバーである吟遊詩人のヒースを除いて自分自身の目的のために生きている利己的なメンバーが多く、救いがない物語でも「自業自得かな」と思えるが、表のメンバーは献身的で志の高いメンバーがほとんどなだけに、救いがないストーリーになおさら哀しさが増す。

 システムについては一つだけ見事に引っかかったのが「宿屋」だった。
 ダイナソアは歩くとHPとTP(MPに相当する)が回復するシステムなのだが、街に「宿屋」という施設がある。試しに泊まってみてもHPやTPが回復するわけではなく、何のために存在する施設なのかゲームが終盤にさしかかるまでさっぱり分からなかった。
 実は、このゲームの宿屋はキャラクター間での技能伝授イベント発生のために存在する施設だったのだ。最初に泊まった時に何も起こらなかったのは技能が低かったからで、成長してから泊まるとあるキャラクターの技能を他のキャラクターに教えようとするイベントが発生する。これはこの施設以外では起こらない。伝授される技能の組み合わせは決まっていて、無制限に技能が増えるわけではない。
 例えば表パーティの僧侶オルリックは元々面倒見がよい性格なのだが、宿に泊まると自分以外のほぼ全員に技能を教えようとする。キャラクターごとの固有技は使えないものの、これで回復魔法を使える人間を増やしておくとかなり楽に進める(特に精霊使いエリスに回復魔法を覚えさせておくと便利)。逆に裏パーティの僧侶ルオンは超自己中心的なので人に物を教えるなんてことはせず、裏パーティはルオン以外回復魔法が使えないという状況になる(リメイクで追加された裏のさらに裏のストーリー分岐に入ると主人公アッシュにだけは魔法を教えようとするらしいが……)。
 んでもってラスボス戦でコイツは敵に寝返るので、裏パーティはどうやってもラスボス戦を回復魔法なしで戦うハメになるのである。



 ダイナソアは、その後電撃系のPCエンジンの雑誌か何かでも移植希望でずっとトップを走り続けていたと記憶しているが、リメイクや移植を好むファルコム作品にしては珍しく、コンシューマに移植されることなく終わってしまったため、知名度は今ひとつだ。しかしシステム部分だけ改良すれば、今でも通じる面白さを持った作品だと私は思う。