ガルパン三昧(3)

ガールズ&パンツァー (MF文庫J)

ガールズ&パンツァー (MF文庫J)


 さて、こちらはアニメ版のノベライズ。通信手、武部沙織の一人称視点で書かれている。
 小説版もまた、アニメ版の第1話に相当する部分がなく、冒頭から自衛隊の教官の指導の下、大洗での初戦という流れになっている。こちらは麻子の扱いもほぼアニメ版と同じで、違いはコミカライズ版より少ない。
 作者自身もアニメ版との差については後書きで述べているが、そこで触れられていない点について数点。


・サンダース戦に勝利するところまでが1巻。


・華の実家のシーンが華自身による説明で終わっており、麻子を除く4人で家を訪ねるシーンがない。母親も新三郎も登場しない。


あんこう踊りの扮装が「全身黒タイツ」になっている。あと、踊るメンバーが「アンコウ+カメチーム」ではなく「全員」に。


・せんしゃ喫茶でのまほとエリカとの遭遇シーンがなく、トーナメント発表の場でまほと出会うシーンが追加されている。このシーンでのまほはちょっと卑怯だ(「エリカなら○○と言うでしょうね」というコメントで、わざとまほ自身の真意が読めない言い方をしている)。


 作者自身は戦車のことを知らない沙織の一人称の方がわかりやすいからそうしたと語っているが、正直、沙織の一人称視点は擬音だらけだったり心情描写が独特で読むのに骨が折れる(笑)。
 戦車のアクションはアニメには勝てないと作者自身も語っており、それは確かにそのとおりだと思うのだが、そうなると読者が知りたいのは何も知らない(つまり読者と同じ立場の)沙織の心情ではなく、みほが何を考え、なぜそのように行動するのか、という視点ではないかと思う。特にみほは平時と戦闘時の行動のギャップが激しく、試合中のみほは他のメンバーからすると「何を考えているかわからない」キャラで、それを沙織の視点から描写すると「なんだかよくわからないけどみほの言うとおりにする」という結果になる。また、試合中の沙織は通信手であんこうチームの行動を俯瞰する立場にないので、余計に「何が起きているかわからない描写」が増える。
 個人的には、みほを初めて見た時連想したのが古橋秀之さんの「ブラッドジャケット」の主人公、アーヴィング・ナイトウォーカーだった。平時はあわわはわはわなキャラなのだが、戦闘時には(まるで二重人格に思えるほど)常人には考えられない才能を発揮する、そして周りの人間には戦闘時に何を考えているのかさっぱりわからない、という点が共通している。もっとも、アーヴィーは人を殺しまくる「修羅」なので、試合中にチームメイトを助けに行ったみほと比べるのはみほが可哀想かもしれないが。
 小説版の話に戻ると、この先沙織が成長してみほの真意を汲めるようになってくれば違和感は減っていく気もするので、それに期待したい。

可哀想物語


 そして、読んだ瞬間心が痛くなったのがこれ。「X−MEN・ZERO」や「Fate/Zero」と一緒で「本編に至るまでの物語」だ。主人公は10歳の頃のみほで、冒頭16歳のみほ(アニメ本編1話冒頭)が登校しながら「もうあんな思いはしたくないから」と昔を回想するシーンから始まる──って、この時点でバッドエンド確定じゃねーか!
 みほの10歳以降の人間関係が上手くいっていたら1話冒頭のあの展開はありえないはずで、何か辛いことが起きるのでは……ということを暗示しつつストーリーは進む(それが黒森峰での一件を指しているのかは不明だが、リトルアーミーの冒頭での回想である以上、リトルアーミーの物語上で黒森峰の一件とはまた別に辛い体験が待っている可能性が高いと思われる)。10歳のみほは16歳のみほが時として帯びる暗さや陰のようなものがなく、ひたすら前向きで、戦車道が全てを解決してくれると信じ、姉を盲信と呼べるほど信頼し切っている。みほが目をキラキラさせながら戦車道の素晴らしさを語るたびに、ガンダム0083のラストでアルビオンのクルーがティターンズの制服を着て喜んでいたシーンをなぜか思い出してしまう。
 しかもこれ、後書きにもあるとおり10歳当時のみほの友人達は完全にオリジナルで、今のところアニメなどには関わってこない。ということは、少なくとも友人関係は現在に継続していないと思われるわけで、みほが熱心に戦車道に誘っている友人達とはその後関係が断絶するだろうという推測もできてしまう──ホント救いがないな!


 まぁ、そこまで暗い想像をしなくても、もしかしたらストパンのハイデマリーのように、今後ゲストキャラとしてリトルアーミーのキャラが描写されることもあるかもしれないけれども(特に西住家の使用人の菊代さんあたりは)。