「天気の子」を観た。
凄い作品だった。
以下、ネタバレありの感想。
(以下、エンディングを含む重大なネタバレありのため、未見の方は回避推奨で)
・先に見た先輩から「賛否両論あると思う」とは聞いていたのだけれど、観た私自身の感想も確かに単純ではない。
・まず、分かりやすく駄目なところから。「モノローグ」。これは、演じている人が下手だとかそういう意味ではない。普通のシーンは別に違和感がなかったので。「映像で分かる部分をモノローグで説明するシーンが多すぎる」のだ。
冒頭からいきなりモノローグなんだけど、このシーンに至っては読む人すらおかしい。これはヒロインの陽菜の回想シーンのはずなのに、延々主人公の帆高が喋り続ける(後半には陽菜のモノローグもあるので、主人公しかモノローグを読まないわけではない)。しかもこのシーン、後でもう一度出てくる。最初のは要らなかったとしか思えない。
他にも、様々なシーンにモノローグが入る。「僕たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだー」このフレーズ、いったい何回モノローグで出てきただろう。
モノローグ自体が悪いわけじゃないんだけど、余りにも多いので、肝心の(つまりクライマックスシーンの)モノローグのインパクトが薄れてしまった。しかも、モノローグは本来心情描写に使われるはずなんだけど、この作品のモノローグは「言わなくても分かってるよ!」っていうシーンが多い。冒頭でいえば、入院している母親の病室、心拍計、雨の中に掛かる虹、鳥居をくぐる陽菜──これだけ映像で描写すれば、モノローグなんてなくても、何が起きたかは見た人間には分かるはずだ。
ただ、この作品にモノローグが多いのは恐らく意図的なものだ。
・逆に、陽菜が天候をコントロールできる理由の部分をぼかしたのはいい判断だった。これ、SFチックな理由をつけようと思えばいくらでも理由はつく。普通に考えれば「『天気の子』の世界では雨雲の中に未解明の生物(?)が生息しており、陽菜にはこれと感応する能力がある。この生物を無意識に引き寄せたり、遠ざけたりすることで、間接的に天候を操作できる」あたりなんだろうけど、これを作中で説明しようと思うと、本題に関係ないところで冗長な説明がずらずら並ぶことになる。ここを、序盤の「一見関係ないシーン」に仮託して、一気に流してしまい、その後は一切触れないというのは英断だった。
ただ、見ている人の何割かは、あの取材シーンの「一見関係ない」のは全部伏線だろうと耳をそばだてていたとは思うけど(笑)。
・私が「素晴らしい作品」とか「大好きな作品」と評しなかったのは次のような理由だ。
この作品はいわゆるセカイ系作品である。
戦闘美少女が主人公に代わって戦うことこそないけれど、ヒロインにしかない能力が存在し、その能力のために危機に陥り、「世界を取るか、ヒロインを取るか」を主人公が選択するシーンがある。これは、何となくそれっぽいとかではなく、はっきりと帆高が何度も「自分は選択した、選んだ」と連呼しており、意図的に設定されたプロットである(モノローグが多いのもセカイ系作品がそうだからだろう)。
私は前に、私はセカイ系作品は嫌いだ、と書いたことがある。そういう理不尽な選択を迫られるというプロットそのものが嫌いだと。その観点からいえば、この作品は嫌いなジャンルの作品になる。
そもそも「ヒロインを取るか、世界を取るか」は、選択のようでいて選択になっていない。メタな視点でいえば、ヒロインと世界のどちらを取るかと言われて世界のためにヒロインを見捨てるようなパーソナリティは主人公になり得ないし、物語も成立しない。よってこの選択は、提示された時点で「ヒロイン一択」なのだ。
その上で「イリヤの空、UFOの夏」のように、主人公はヒロインを選んだものの、ヒロインは助からず世界が救われるエンディングの作品もあるし、「沙耶の唄」のように、本当にヒロインを取って世界を滅ぼしてしまうような作品もある。
新海監督自身「ほしのこえ」だとか「雲の向こう約束の場所」がセカイ系の代表的作品として挙げられることが珍しくない。その意味では、この作品は「原点回帰」である。
・では、この作品は過去の作品のリメイク的な作品なのか。単純なセカイ系の作品なのか。そうならば私は「凄い」とは言わなかった。
この作品の凄いところは、最後の15分間。「3年後」からの部分である。「世界を取るか、ヒロインを取るか」。ヒロインを取ったにも関わらず、この作品には「続き」がある。「ヒロインと二人きりではない」続きがあるのだ。
「天気の子」を、単純にかつてのセカイ系作品のような形で纏めることも可能だったはずだ。陽菜は消えたまま、東京は夏を取り戻す。前述の「イリヤ」のような終わり方だ。物語自体、一旦その方向に振れている(思えば、追っ手から逃れるため3人で逃避行するシーンも似ている)。そこから陽菜を取り戻す方向に急に揺り戻すわけだ。
圭介が帆高に向かって言う。「お前のせいで世界がこんなになったって? 自惚れるなよ。お前のせいじゃねえよ」と。これは、主人公とヒロインという世界の「外側の世界」だ。セカイ系作品の多くでは、主人公とヒロイン以外の存在は、世界を構成する存在、つまりヒロインを選択する障害的な要素になるが、この作品ではそうではない。「陽菜か、東京か」で陽菜を選んだにもかかわらず、誰も帆高を糾弾しない。帆高の選択の結果だとも思っていない。冨美は「東京は昔に戻っただけ」と穏やかに述べるのみだ。
これは、新海監督の「今」だ。
この作品は、帆高の作品でありながら、かつそれを取り巻く大人たちの作品でもある。かつてセカイ系を描いた監督が「『ヒロインを取るか、世界を取るか』と言われて、ヒロインを取ったら世界は終わると思っていただろう? 世界は君たちが考えるよりもうちょっとタフだよ」と語る作品だ。
「娘と面会できなくなるから」と帆高を突き放す圭介の姿、あれは娘を持つ父親としての新海監督にとって「等身大」の登場人物だろう。その姿を描きながら、昔と同じ選択を迫られ、ヒロインを選ぶ主人公も同時に描く。圭介に上のような台詞を言われつつも、最後に帆高は陽菜と再会し、そしてこういうのだ。「それでも僕は選んだんだ」と。
かつての自分の描きたかったものと、今の自分の描きたかったものを、同時に描く。これこそ集大成だろう。
そして、この作品の「真に凄いところ」はここからだ。
・「君の名は」で新海監督を知り、劇場に足を運んだ観客の多くは、セカイ系のことなど知らないだろう。何しろ、そのムーブメント自体がもう20年近く前の話である。新海監督の過去作品を見たことがあったとしても、当時のこのジャンルの全体の流れを俯瞰することはできない。それに、前作でメジャーになったこの作品の観客は、かつて新海監督の作品を見ていたアニメファンたちとはもう違う。私も席について驚いたが、7~8歳くらいの子供から、70代と思しき男女まで、本当に老若男女が「天気の子」を観に来ている。
その彼らに向かって「どうだ! これが俺がかつて描いていたセカイ系の集大成だ!」とやってみせたわけだ。普通の度胸ではできないことだ。普通なら細○監督のように、メジャー受けしたら方向性を変え、結局誰に向けて描いてるんだかわからないような道を選んでしまうだろう。
ある人が、新海監督を「童貞心を失わない監督」と評したけれど、これこそがまさにその真骨頂だ。圭介に上記のような台詞を言わせながら、最後には帆高の台詞で締める。世界は君が考えるよりもうちょっとタフだけれど、それでも君が選んだことには意味があるんだよ、と、その心情に寄り添う。自分の作品のターゲットは「帆高と等身大の観客たち」だとはっきりアピールしている。
・私自身としては、「天気の子」をセカイ系作品として観ると、ジャンル自体が好きではないので評価しにくい。しかし「天気の子」は「ヒロインか世界かでヒロインを取ったにもかかわらず、ヒロインも世界も(なんとなく)ハッピーエンド」という、ウルトラCを成し遂げている。東京は確かに水没して終わるのに、悲壮感がまったくないのだ。意図的にそう演出されている。なので低評価の部分は少ない。前述のモノローグの部分くらいだろうか。「くらい」といっても、一人で行ってよかったと思うほどには、何度も(気恥ずかしさで)劇場を出て行きそうになったが……。
・あと、銃を巡るプロットは要らなかったんじゃないだろうか。あれ凄く浮いてたし。ないと物語が成立しないようにも見えなかった。
・帆高と夏美の初対面のシーンとか、あれを芸能界デビューしてる娘を持つ新海監督が描けるんだから凄いよな……。しかし、「君の名は」の奥寺さんといい、夏美といい、新海監督って本当にああいうキャラ好きなんだな(笑)。
・瀧と三葉はわかったけど、四葉とてっしーとさやかは見つからなかった。残念。
・個人的には凪くんと彼女たちが結構好きだったんだけど、キャスティングを見て驚いた。あれ花澤さんと佐倉さんだったんだね。しかも名前が「カナ」と「アヤネ」。まんまやんけ(笑)。