観てきました。
(以下、ネタバレありの感想になりますのでご注意)
(以下、ネタバレ前提の話しか出てきません)
・まず最初に断っておくと、私が「ユア・ストーリー」を観に行ったのは、評判がよくなかったから怖いもの観たさ、というわけではない。前に「ファイナルファンタジー・ザ・ムービー」が公開された時、私は観に行かず、その後スクウェアは惨憺たる状況に陥った。私一人が劇場に行ったところでどうこうなるものでないことは承知しているが、もしこれがきっかけでドラクエというIPに何かが起きたとしたら、私は自分にできる範囲のことをしただろうかと後で自問せずにすむように、IPを応援したいという意味で、私は前からこれを観に行くつもりだった。
むしろ、クソ映画ハンターではない私としては(実写版デビルマンは劇場で見たが)、評判を聞いて躊躇した口なのだが──個人的には、酷いけど「令和の実写版デビルマン」と言われるほどではない、と思う。悪い言い方をすると、あそこまで壊滅的ではないので、印象に残らないだろう、という意味も含めて。
・実写版デビルマンは、見るべきところが本当にどこにもない。演技は学芸会、脚本は支離滅裂、CGは稚拙、舞台は駅前ばかり。あれを直せと言われたら、一から撮り直した方がマシなくらい、どこも使えるところがない。
それに対してユアストーリーは、「未来のミライ」と違ってストーリーは分かるし、最後の15分間をカットすれば、名作とは言わないまでも評価できるところはある。ただ、実写版デビルマンに例えた人の気持ちも、わからなくはない(後述)。
・この作品を評価するにあたっては、原作であるドラゴンクエスト5を映像化した部分と、そうでないオリジナル設定の部分、これを分けて評価したい。なぜなら、この二つに求められるものは別のものだからだ。
・まず、ゲーム版を映画化した部分。「あれだけ長い物語だからダイジェストになるのも仕方ない」なんていう擁護意見も目にしたけど、私は賛成しない。映画として「どこを見せたいか」がはっきりしていれば、不要なシーンを切ることはできたはず。例えば、ゴールドオーブのシーン。実は、このシーンが原作で一番好きなシーンで、唯一私がこの映画で涙腺が緩みかけたシーンなんだけど、全体から見れば必須のプロットではない。
少年時代の思い出にしても、オープニングやビアンカとの思い出を(ゲーム画面をそのまま抽出するなどという方法で!)省略するのなら、パパスが倒れるシーンも回想シーンで流してよかったはずだ。妖精の里のシーンも不要。これらはむしろ、ゴールドオーブ関連を残したために「流せなかった」部分だろうが、作品のテーマを考えればそこまでして残す必要はなかった。
・逆に、尺が短い中で主人公が生意気な子供から落ち着きのない青年、頼れる父親として成長していく見せ方は、巧みとは言えないまでも描こうと努力していることは分かった。
・そして、ビアンカとフローラを選ぶシーン。これも、ビアンカを選びつつもフローラにも見せ場を用意した、なかなかいいまとめ方だと思う。特にフローラの中の人がちゃんと占い婆を兼役していたのには驚いた。
・主人公が途中まで自分のことを天空の血を引いた勇者だと思っていただとか(原作にそんな描写はない)、一度フローラに求婚していながらビアンカに乗り換える(原作では「どちらか選べ」と言われるだけ)というのは違和感があったけど、目くじら立てるほどのことではないだろう。逆に、主人公の子供を一人にしたのは英断だった。ただでさえ尺が足りてないのに、子供を二人出したら余計ややこしくなる。
・あと、総監督が原作を遊んでないのはよくわかったけど、原作者側でこれはちゃんと監修して欲しいと思ったのが、ブオーンを倒したあたりで登場人物が「クエスト」を連呼するところ。今時のゲームじゃあるまいし、原作に「クエスト」なんて概念はない。あとキラーマシーンを「ロボット」と呼ぶところとか。これも、原作ではキラーマシーンがロボットと呼ばれるシーンは一箇所もない。
・そんな訳で、終了15分前の部分までだったら「CGも思ったほど違和感なかったし、ゲマもちゃんと小憎らしい感じだったし、頑張ったんじゃないでしょうか。及第点」ですむところだったのだが……。
・ここからは後半戦。論議を呼んでいるラストの「オチ」の部分である。
いくらなんでもヴァーチャルリアリティの描き方が古すぎるというのが第一印象だ。現実世界にヴァーチャルリアリティが存在する、ましてそれが実用化されている時代に「ドラクエのVRゲームを遊んでいる間、現実世界の記憶や感情を覚えていない」とか、製作者の脳内はどんだけ時代遅れなんだよ、という話である。
マトリックスでさえ、もう20年も前の作品だ。そして10年前のソードアートオンライン(SAO)と比べても明らかに描写が古い。「天気の子」がゼロ年代のエロゲなら、本作は90年代のSFだ。
・そしてここが最大の問題だ。
製作者たちが、この映画のメインターゲットに設定しているのはどの世代だろう。リアルタイムでドラクエ5を遊んだ世代? あるいはその子供? 前者だとすると、発売当時小学生だとしても、もう40歳の大人である。そんなかつての子供たちが、ドラクエの思い出を再体験するために劇場に向かったわけだ。その観客に向かって「大人になれよ」は、たとえ悪役であっても不意打ちで浴びせていい台詞ではない。
時代劇で悪代官が「もう時代劇なんて古いだろ」とか、仮面ライダーで悪役が「もう特撮を見るような年齢じゃないだろ」とか前振りなしで観客に言ったらどうなるか、想像できなかったのだろうか? 総監督は他人の作品で何の脈絡もなく「邦画なんてとっくに終わってるだろ」なんて台詞が出てきてもなんとも思わないのだろうか? 要は、製作者たちは観客の逆鱗に触れてしまったのだ。
・一方の子供であるが、そもそもドラクエ5に「思い入れ」がない子供にそんなメタ視点持ち出しても「意味が分からない」で一蹴されて終わりだろう。
実は今回、映画を見ている間近くの席で子供がずっと親と喋っていて、物語の粗よりそっちが気になってしょうがなかったのだが、その子供はゲマが倒されるシーンの直後から黙り込み、劇場を出ていくまで一言も発しなかった。そういうものだろう。
・某所のレビューにも書かれているが、この作品が「実写版デビルマン」を持ち出してまで批判される理由は「原作の思い出をメチャクチャにされたから」だ。要はこの作品、「ゲームをやらない人間がゲームが好きな人間を見下す、上から目線」で作られた作品であり、しかもそれを作品の一部として、総監督の主張として、画面に出してしまっている。象徴的な台詞が先述の「大人になれよ」だ。実写版デビルマンですら、登場人物に「もうデビルマンは卒業しろよ」とは言わせなかった。製作者には自覚がないようだが、観客が怒るのは当然だ。
・今は昔とは違う。スマホでゲームをする人は珍しくなく、ゲーマーもかつてのような日陰の存在ではない。もう21世紀になってから20年も経つ時代に「ミルドラースに化けていたウイルスを、スライムが持っていたワクチンで倒してハッピーエンド。ゲームの世界に戻ってきたよ! 君たちはゲームの世界にいていいんだよ! チャンチャン」。これでハッピーエンドになると本当に考えていたのなら、認識が甘すぎる。
この作品を、製作者の思惑通りの「ドラクエ5から一歩引いた視点」で見ると、作品内では何一つ解決していない。ウイルスを作った犯人はどうなった? ワクチンを作ったのは誰? VRをウイルス汚染されるという不祥事をやらかした会社のその後は? 全部放置である。これらを物語として描く気がないなら、メタ視点など持ち出すべきではない。VRは架空の技術ではない。「ただ描けば終わり」な時代は、もう20年も前に終わっているのだ。ゲーマーを肯定さえすれば、作品として成り立っていなくても受け入れられると考えてしまっているあたりも、「ゲーマーが馬鹿にされている」という印象を受ける理由だろう。
・しかし逆にいえば、そこさえ描けていれば、作品として成立していた可能性はある。実写版デビルマンや未来のミライとはそこが違う。足りないだけであって、作品の体をなしていないほど支離滅裂ではないからだ。
・本作も、もうちょっとマシな展開にできる可能性はあった。例えばフローラとゲマの扱い一つ取ってもそうだ。
本作で主人公と結婚するのはビアンカなのでビアンカが目立つが、実は本作のもう一人の主人公になり得たのはフローラのほうである。というのも、彼女はこの作品でゲーム内の第四の壁を破っているからだ。
フローラは、主人公が密かにビアンカを想っているのを知り、正体を隠して主人公に近づき、その秘めた思いを自覚させる手伝いをする。ところがラスト近くで、主人公を操作するプレイヤーが「いつもビアンカを選んでいるから今回はフローラで」と、ゲーム前にフローラを選んでいたことが判明するのだ。つまり「仮想現実の外でプログラムされた設定を、ゲーム内のフローラが破っている」ことになる。また、ゲマも(マーサもだが)ゲーム内の登場人物でありながら、コンピュータウイルスの存在を知っていることを匂わせる台詞がある。
この辺をもうちょっと掘り下げられれば──フローラはVR運営会社の社員が操作していて(だからゲーム外の設定を知っていた、とか)、不祥事を隠したい運営会社に秘密でプレイヤーを助け、ワクチンを手渡そうとしているとか。ゲマはウイルスを作った犯人のハッカー仲間が操作していて、実はプレイヤーの知人だったとか。
・もちろん、こんなプロットを挟めば、最後に「ミルドラースはコンピュータウイルスでした」というどんでん返しはできなくなる。しかし、冷静にプロットを検討すれば「実は仮想世界でした」なんていうオチを「最後のどんでん返し」に持ってくるのに無理があるのは明らかである。「代紋TAKE2」も「スターオーシャン3」もそれで失敗して酷評されている。受け手の感情移入の阻害にしかならないし、作中で提示された問題を解決する時間もない。だからこそ、マトリックスでも「実は仮想現実だった」というのは早い段階で分かるようになっている。そもそもこんなアイデアを最後のオチに使うのは誰が見ても陳腐なのだから、ちゃんと作中で伏線を張って解決したほうがずっとマシだった。
・今更な話だが、総監督は「このオチが描きたいからこの作品を作った」と言っている。それなら、本来はドラクエ5を選ぶべきではなかった。なぜなら、ドラクエ4と5は1~3へのアンチテーゼが含まれているからだ。4は「最後にならないと勇者が出てこない」5は「主人公は勇者ではない」という形によって。
ドラクエ5の劇場版のラストという重要な場面で「世界を救ったのは貴方です。貴方こそが勇者だ」などと言わせるのは、作品のテーマに反する。ドラクエ5の主人公は「徹頭徹尾勇者ではない」ことが存在意義であり、それは仮想現実ゲームの「貴方こそがプレイヤーであり勇者だった」という設定とは相性が悪い。
また、ドラクエ5は物語性が強いため「ストーリー上の必要性」から登場する人物が多く、主人公と類似した立ち位置の登場人物が出てこない。だから、このラストだと「主人公以外は全部作り物、プログラムに過ぎなかった」という興醒めな結論から逃れられない。しつこいようだが、いったんメタ視点を出しておきながら、ゲーム内に視点を戻して、ゲームがハッピーエンドだからハッピーエンド、では物語は成立しない。10年前のSAOですら、現実に戻った後、登場人物のその後が描かれているのだ。
・ならば、総監督の主張に最も合うテーマのドラクエはどれだったか。それはもちろんドラゴンクエスト3だ。
ドラクエ3は、主人公は勇者だが、ルイーダの酒場で出会う仲間たちもまた冒険者だ。これなら「貴方が世界を救った勇者だ」と言いつつ「一緒にゲームの世界を救った仲間たちは、どこの誰だか知らないけれど、この世界のどこかに確かに存在しているんだ」というエンディングにできる。そして勇者ロトは最後に姿を消した──これも、ドラクエ3なら違和感がない。
ラストシーンは、互いにそれと知らず現実世界の街中ですれ違う、ゲーム内での仲間たち──作中で「所詮全てはプログラムに過ぎない」なんて卓袱台返しをやってしまったら、こういうエンディング以外ありえなくなってしまう。だからみんな「思いついても実行に移さない」のだ。VRゲームの世界は終わりのない世界ではなく、その外には紛れもない現実が広がっていることを、製作者はどうだか知らないが、少なくとも観客は皆知っている。
・ドラクエ3は自由に仲間が選べる関係上、仲間の存在に拠った重要なイベントが少ない。言い方を変えれば必須なイベントが少なく、仮想現実ネタをやりたいならプロットを差し挟める余地が大きい。これに対してドラクエ5は重要なイベントが多く、オリジナル要素を組み込むのは時間的に厳しい。
オチをやりたいならタイトル選びが間違いで、タイトルが決まっていたのならオチが間違っていた。
・なお、後日こんなこともあった。
結局のところ、これが製作者の本音。隠しきれない「上から目線」の正体なのだろう。
冷静になって考えてみると、ドル箱のDQXを抱え、VRZONEでVRゲームをリリースし、過去作品のリメイクを連発しているドラクエというIPで、「いい加減ドラクエなんてやめて大人になれよ」などと言い放つような企画が良く通ったものだ。真に驚くべきはそちらのほうなのかもしれない。
しかし、日本で最高のCG技術を有するはずの制作集団が、ゲームや仮想現実について20年以上前の知見に基づく作品しか作れないというのは、なんだか皮肉な話である。