旅行記も面白いけど


 北海道旅行記も面白いけど、33分探偵が好きすぎる身としては、冒頭の茶番と次回予告が気になってしょうがない……(笑)。

凝ってる

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 うわー、あちこち塗装が剥げてるっぽくしてあるところとか、金属光沢っぽい塗りとかいかにもレトロフューチャーソニー製みたいな「全部黒でお洒落」な感じじゃなくて、ボロボロな感じがそれっぽい。多分プレステバージョンは出ないんだろうな……。
 ……しかしソフトが出るより3か月も前にコラボ本体が出るっていうのはどうなんだ(笑)。

TRPGにおけるヴィランの話(その2)

 さて、先日のエントリの続きである。

 ヴィランが「顔見せ」できるかどうかというのは、GMによっては、些細なことに思えるかもしれない。しかし、これから書くことを些細なことと考えるGMはまずいないだろう。


 それは「TRPGにおけるヴィランの行動原理」だ。


 キャンペーンの最後の敵、ヴィランがどういう行動原理に基づいて行動しているか、というのは、キャンペーン全体の空気を左右する、非常に大きな問題だ。
 ここで一つ大事なことがある。かつて私はサマーウォーズのエントリで、物語にはそれ全体の大きな目的(最終目的)と、主人公の個人的な目的と、それぞれ必要だ、と書いた。同じことがヴィランにも言える。
 例えばラオウであれば、世界の覇者となるのが最終目的であり、ユリアを手に入れたいというのが個人的な目的だ。教皇サガであれば、聖域を、ひいては世界を支配するのが最終目的で、城戸沙織を抹殺するのが個人的な目的だ。私がジョジョが大好きなのに前回ジョジョの名前を挙げなかったのは、ディオというヴィランが「ジョースターの血統との決着をつけたい」という個人的な目的はわかるのに、最終目的が分かりづらく、参考にしづらいキャラだったからである。花京院と戦う時に「知るがいい、ザ・ワールドの能力は、まさに世界を支配する能力だということを」と語るまで、第三部のDIOの「最終目的」はよくわからなかった。
 サガの場合、二つの目的は被っているように見えるが(城戸沙織=アテナの抹殺が世界を支配する条件)、これらは別々に理解しないといけない理由がある。ヴィランの個人的な目的は、主人公側の個人的な目的と表裏一体なのだ。サガが聖域や世界を支配しようとしていたとしても、その理由だけでは星矢たちは彼とは戦わなかった。星矢がサガを倒しに行ったのは、最終的には、沙織が矢で刺されたからだ。ラオウケンシロウの戦いも、最後は「ユリアを巡っての戦い」であって、世界の支配権を巡っての戦いではない。


 言い方を変えるとこういうことだ。ヴィランの個人的な目的とは、主人公を物語に巻き込むための目的であり、最終目的は、主人公を主人公たらしめるための目的である、と。ヴィランの最終目的だけでは、よほどお節介で正義感の強い主人公でない限り、物語に巻き込むことができないが、しかしヴィラン側の最終目的を阻止するという結果が存在しないと、主人公に正当性がなくなる。この二つはどちらも必要だ。

ヴィランの最終目的は?

 そして、問題になるのは、ヴィランの「最終目的」の方だ。というのも、先程述べたことを逆からいうと、個人的な目的は、主人公を物語に巻き込むためであれば何でもよいという話になるからだ。クリリンが殺されたでも、沙織が死にそうだでも、故国ローラントが滅ぼされたでも、無数のバリエーションが考えられる。ヴィランを真に印象づけるのは最終目的の方だ。
 とはいえ、少年漫画や昔のゲームでは、ヴィランの最終目的にもそれほどのバリエーションはなかった。世界を支配するか破壊するか、どちらかが多い。例えば、ラオウやサガや竜王は前者で、ケフカは後者だ。
 では、なぜわざわざ言及したかというと、日本の黎明期のTRPGで一番有名なもののひとつであろうロードス島戦記ヴィラン“灰色の魔女”カーラが、非常に特異な存在だったからである。



 カーラの最終目的は「光と闇のバランスを取る」ことであり、光が勝っている英雄戦争においては闇に、闇が勝っている魔神戦争においては光に加勢している。
 しかし、普通のファンタジー作品においては、光と闇、秩序と混沌のバランスを取ることは、どちらかといえば主人公、あるいはその庇護者の目指すものである。ムアコックの「永遠の戦士」シリーズにおける天秤は言わずもがな、ドラゴンランスに至っては光の神パラダイン=フィズバン自身が「光と闇がバランスを取り戻した状態こそが望ましい」と言っている。スターウォーズのアナキンも「フォースにバランスをもたらすもの」だ。
 「バランスを取ることがヴィランの最終目的、すなわち“悪”である」というテーマは、その後の色々な作品を見渡しても、他にほとんど見当たらない。ロードス島戦記第1シリーズに独特のものである。
 しかも、作者自身がこの設定を持て余したのか、それとも陳腐化を恐れたのか、理由はわからないが、フォーセリアサーガ全体を見渡しても、カーラの後継者、あるいは志を同じくする者は現れなかった(え? グッドルッキンなゴブリン? ヴィラン出てこないじゃん)。
 代わってフォーセリアサーガの定番になったのが「力を求めるのを最終目的とするヴィラン」、すなわち「力を求めるのは悪である」というテーマである。ロードス島戦記小説版2巻で力を求めてイフリートを召喚したアズモが悪。支配の王錫の力を求めたアシュラムが悪。



 一番わかりやすいセリフをクリスタニア劇場版のヴィラン(神王バルバス)が口にしている。

 「強き者には支配が! 弱き者には従属あるのみ! 力こそ支配の法則だ! 力の前には仲間など、ない!」


 しかし、前にクリスタニア「バルバスの標榜する『復讐』は悪なのか?」と書いたのと同様に、この「力を求めるのが悪」というテーマも、個人的には非常に受け入れ難かった。


 何故なら、TRPGとはPCが経験を積んで力を手にしていくゲームだからだ。GMがセッションの報酬として経験値を渡していながら「力を求めるのが悪」というのは、自己否定以外の何者でもない。


 もちろん、これらの作品では大抵「その身にそぐわない力を手に入れると破滅する」のように予防線が張られていることが多いが、では「相応の力とは具体的にはどれくらい」と言われると返答に窮する。
 例えば、ロードス島戦記リプレイ第2シリーズのアシュラムの行動はこのように表現できる。「彼は自分の目的のために、仲間を集め、大陸のあちこちを旅し、ドラゴンを倒し、それが守護していたマジックアイテムを手に入れようとしていた」と。
 こう書くと、アシュラムの行動とPCの行動とどこが違うのか、という話になってしまう。ペルソナ5の「お前の改心と俺の改心のどこが違うのか」問題と同じである。
 では、ドラクエなどのように、世界を支配する、あるいは破壊することを目的とするヴィランを登場させるか?
 実はそれも難しい。先に挙げた作品の多くは、主人公は冒険者でもなければフリーランスでもない。例えば、ラオウケンシロウは血縁者。ジョースターとディオは先祖代々の因縁がある。最近リメイクされた聖剣3を見ても、6人の主人公のうち3人は王族出身だ。
 どういうことかというと、ヴィランの目的を世界の支配や破壊という大きな目的にしてしまうと、今度はPCを巻き込む個人的な理由が設定しづらくなるのだ。主人公に王族が多いのは、ヴィラン側に主人公を狙う理由ができるからだ。ヴィランが主人公を狙うことで因縁ができ、主人公側にも旅立つ理由が生まれる。これが、PCがフリーランス冒険者だった場合、何故わざわざPCを狙うのかという理由が必要になる。
 また、キャンペーンをスタートする時点でのPCの強さの設定によっては、世界を破壊するだの支配するだのといった最終目的を持つヴィランの存在にリアリティがない、という状況もあり得る。CD&Dのレベル1のシナリオに顔見せで登場する程度のヴィランが「世界を支配する/破壊する」と息巻いたところで、大抵のプレイヤーは「お前が? どうやって?」としか思わないだろう。
 そしてやはり、世界を支配する/破壊するというだけのヴィランは、プレイヤーたちにとっては見飽きた存在。もう食傷気味だろう。


 というわけで、当時の私は悩んでいた。無理がなく、月並みでもないヴィランの設定はないものか。
 そんな私がたまたま目にしたのが「天地無用」という作品であり、そこに登場するヴィラン「神我人」だったのだ(ここに来るまでやたら長かったが……)。

素晴らしい! 私の負けだ、少年。

第六話 天地必要

第六話 天地必要

  • メディア: Prime Video


 神我人の存在は、私にとってはカルチャーショックだった。他では見たことのないタイプのヴィランだからだ。


 なお、ここから先の神我人に関する記述は、天地無用のOVA第1期を見た私が個人的に受けた印象であって、その後公開された公式設定などとは異なる可能性があるのでご容赦願いたい。あくまでも「当時の私から見た神我人」である。


 まず、彼の目的は「知識」だ。知識を目的とするヴィランというと、FF7の宝条のような「マッドサイエンティスト」が浮かぶ。今では珍しくもないが、当時の私が知っていた作品でいうと、劇場版ダーティペアのワッツマン教授や、バブルガムクライシス8のミリアムもマッドサイエンティストタイプである。要は「自分の作った作品や理論の有用性を証明するためなら手段を選ばない」というヴィランだ。ロードスでいえばバグナードがそれっぽい。
 しかし、神我人は「自分の作った作品」にはこだわりがない。作中に登場する「光鷹翼」というエネルギーのことを調べているが、その力を入手してどうこうしようというわけでもない。彼はただ純粋に「それがどんなものか知りたい」だけだ。
 しかし、それを知るために手段を選ばず、人も殺す。
 結局神我人は、主人公の放つ光鷹翼の力によって倒される。彼の最期のセリフが、また印象深かった。

「素晴らしい! ……私の負けだ、少年」


 一応断っておくと「主人公の剣技の成長を見れて満足して死んだ」とか、そういうシーンではない。純粋に「光鷹翼の力を見れてよかった(結果として自分が死んだとしても)」と言っているのだ。
 彼は光鷹翼が力を発揮する状況を作り出すために非道な行いを数々しているので、間違いなく邪悪な人物ではあるが、そこにはマッドサイエンティストタイプに特有の「何故世界は自分を認めないのか」という劣等感は感じられない。そもそも求めている知識が、自分に由来するものではないからだろう。「清々しく邪悪」なのだ。
 しかも、彼は知識を求めるタイプでありながら、戦い方は「剣士」のそれである。戦闘になれば正面から斬りかかる。このミスマッチ感も面白かった。

 なんとか彼のようなヴィランを自分のキャンペーンに登場させられないだろうか。当時私はそう考えた。(まだ続きます)