ペクよりエディの方が……


 鉄拳で言ったら、レバーを適当に前後左右に入れながら左右のキックボタンを連打するだけでメチャクチャ回避しづらくなるエディ・ゴルドの方が辛かったと思う。エディは途中に構え変化も混じるんで、余計に回避しづらかった。

実は根の深い話


 この間書いた「グローランサと違って、この本には重金属のスープは載っていないよ」という話。冗談めかして書いたけど、あれは実は結構深い話だったりする。
 どういうことか。この本にはエルフやドワーフといった、人間ではない種族、デミヒューマンの料理が掲載されている。しかし、そのバリエーションはどう贔屓目に見ても、西欧料理の域を出ていない。インドのような香辛料理、中華料理や和食にあるような麵料理もない。つまり、デミヒューマンは「人間ではない」にも関わらず、インドや中国、あるいは日本といった「同じ人間の異民族」よりも「近い存在」だということになる。
 これは食事に限った話ではない。食事は文化の表れだ。衣類や建築物──そして、価値観。「デミヒューマンと同じ人類の異民族、どちらがその世界の中心となる人間の文化に近いのか」。グローランサは、デミヒューマンをより遠い存在として描いた。だから、トロウルは明らかに人間には食べられないものを食べる設定になっている。しかし、ヒーローズフィーストを読む限り、D&Dではそうではない。
 これは「だからこの本は間違っている」というものではない。物理的な距離を考えれば、D&Dにおいても遥か遠くの人間の異民族より、近くのデミヒューマンの方が、文化的に近い存在になるというのは、それなりに説得力がある。要は「世界設定の中で、デミヒューマンをどういう位置づけに置くか」という問題だ。また、前回書いたとおり、あまりに奇想天外な料理になると、それを再現して読者が料理する、というこの本のコンセプトに反する。もしかしたら、この本に掲載されていない、奇想天外な料理がエルフやドワーフにはある、という可能性も否定できない。
 この辺りの問題は考え出すときりがなく、矛盾のないように語るのは非常に難しい。先日書いたように、セッションへの影響の少ない「料理」で、あえて火中の栗を拾う必要はないからこそ、古今のゲームでは深く触れてこなかった。だから、この本は非常に勇気ある一冊だし、後続もなかなか追随してこないのではないだろうか。そういう意味では貴重な本だと思う。

 あと、これは後付けの補足(本を持っていない人向け)になるが、この本は「D&Dの料理」の紹介であって、統一された一つの世界観の料理の紹介ではない。従って、ドラゴンランスの料理も、フォーゴトンレルムの料理も、エベロンの料理もまぜこぜに紹介されている(一応出典タイトルはわかるようになっている)。