アトルガンへ行こう!


 先日買った「フェイタル・コネクション」をよくよく見て、FF11のアンソロジーコミックのレーベルがブロスコミックスEXからファミ通クリアコミックスに変わっていることに気づき、慌てて買い足したのがこの本。おおつきべるのさんによるFF11の本としてはこれが3冊目にあたる。


 さて「コンピュータゲームのアンソロジーコミック」について、私がどう考えているかちょっと触れておく。


 コンシューマで発売された人気ゲームの多くで、ゲーム発売後しばらくの間、色々な作家によるアンソロジーコミックが執筆され、本屋に並ぶ。
 以前は東鳩2とかペルソナ4とかのアンソロジーコミックを買い漁っていた私だが、今はそのほとんどを買わなくなってしまった。
 アンソロジーコミックを買う人間の多くは、私も含め、ゲーム内のストーリーに飽き足らず、登場人物のさらなる物語が見たいとコミックを買う。最初はその望みが充足されるので問題ないのだが、巻数を重ねるにつれ登場人物の設定や性格が、ゲーム本編のそれと大きく乖離してくることが多い。ネタがなくなってくるせいだ。物語は徐々に一次創作を前提とした二次創作ではなく、二次創作を前提とした三次創作になってしまう。
 もちろんそれらは同人ではなく公式に認められたものだから、イメージを粉々にぶっ壊すようなあまりにも酷いものは少ないのだが、飛○はそんなこと言わな…じゃない、そのキャラはそんな台詞言わないだろう、なんていう場面がちょくちょく出てくる。
 それを言ったらニコマスだって同じわけだが、私の中ではニコマスは「ニコニコ動画というチャンネルに出演している765プロダクションのアイドル」という位置づけとして整理がついている。それと、ニコニコ動画は視聴者がコメントを流す機能がついているため、視聴者による共感、反感、ツッコミを期待して動画を見るのもまた楽しい。同じ動画がYoutubeに上がっていたところで、どんなに画質がよくても私は見ないだろう。


 閑話休題。というわけで、普通のゲームのアンソロジーコミックは追いかけなくなった私だが、世界樹の迷宮など「自分でキャラ作成ができるゲーム」のアンソロジーコミックだとちょっと話が変わってくる。
 コミックの登場人物はあくまでも「その作者が作ったキャラクター」であり、例えば私の知っているアーモロードによく似た世界にいたとしても、私が作ったキャラクターではない。どんな突拍子もないことを喋ろうが、どんな行動を取ろうが「この作者のところのカースメーカーおもしれー」で済み、イメージが壊れる心配もない。ただ残念なのは、この種のゲームのアンソロジーコミックというもの自体が、ほとんど存在しないことだが。


 そのベクトルのさらに先にあるのが、オンラインゲームのアンソロジーコミックだ。
 同じFF11というゲームを遊んでいても、プレイヤーによってその目に映るものは違う。プレイヤーの数だけヴァナディールがある。アンソロジーコミックを買って読むということは、人の頭の中にあるヴァナディールを垣間見るということだ。
 しかもオンラインゲームの場合、その「コミックを描いた誰か」と、ヴァナディールですれ違うことがあるかもしれない。同じ空の下で冒険している、もしかしたら隣に立っている誰かの頭の中に、こんな世界が広がっているかもしれないと思いながらアルザビの町を歩くのは実に楽しいことだ。


 さて、では次回は最近のアンソロジーの傾向について喋る予定。