ウィザードリィらしさとは(2)

 昨日のエントリのちょっとした補足である。

 じゃあ、私の考えるウィザードリィらしさとは何か? 私がウィザードリィオンラインやZEOに覚える「違和感」の正体は何なのか? その答えが、まさにZEOの1巻にずばり書かれていた。

 いいか 冒険者ってのはな いわゆる“ギャンブラー”なんだ
 秘境・迷宮の探索 魔獣・怪獣の討伐
 ギルドから様々な依頼を引き受け 命の危険を対価に富と名声を得る

 

 狂王の試練場やダパルプスの呪い穴に挑む冒険者に「冒険者は何のためにいるか?」と聞いたら、こんな答えは絶対に返ってこない。
 試練場に挑む冒険者ならば──もちろん「ワードナを倒すこと」と答えるはずだ。


 目的がはっきりしていること。


 ウィザードリィの初代から外伝、あるいはシステムの大変更があった時も、その点だけは変わらなかった。「ただなんとなく」「自分だけの目的のために」ダンジョンに潜る冒険者はそこにはいない。逆に言えば、目的が明確でないからこそウィザードリィオンラインでは冒険者を殺して身包み剥ぐような世界設定が許されるのだろう。強大な敵が存在し、目的がはっきりしていればそんな余裕はないはずだ。ZEOの登場人物たちも同じで、個々の目的は持っているが、全員が共通する目的は持っていない。
 また、アマゾンのウィザードリィ・生命の楔、あるいはその続編の忘却の遺産の商品説明を見ても、冒険者の目的、状況の説明が一行も書かれていない。岩原氏の関わるウィザードリィ作品が全て同じ傾向だということは、彼はそんなものはウィザードリィにとって重要なことではないと思っているのだろう。実際、インタビュー記事を読んでもストーリー部分にはまったくと言っていいほど触れられていない。恐らく「生命の楔」で一番不評な部分である「自由にキャラクターが作れないこと」「デフォルトキャラクターがパーティから外せないこと」がなぜ評価が低いかも理解できていないだろう。続編でキャラクター作成システム周りだけを自由になり、他の部分がそのままだというのは、問題点をはっきりとわかっていないことの証左だ。
 冒険者たちが明確な目的を持つことと、自由にキャラクターを作りパーティが編成できることは、同じコインの表裏だ。「生命の楔」でデフォルト主人公がパーティーから外せず、そうでないとストーリーが進まないのは何故かといえば、冒険の動機が個々のキャラクターに内在するものであって、冒険者たちに共通した明確な目的がないからだ。これが狂王の試練場ならば、ワードナを倒すという大きな目的があるからこそ、プレイヤーが自由にキャラクターを作ってパーティを編成してもストーリーに不自然さがない。


 ウィザードリィらしさとは、と聞かれてストーリーと答える人間はほとんどいないだろう。しかし、それはストーリーを軽視していいということでは決してない。ZEOは逆説的な意味で、それをはっきりと証明している。


~【Amazon.co.jp限定】Wizardry ~~生命の楔~~~

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