とにかく広かった

togetter.com


 実際に行ってみた時は、それぞれの動物が離れたところで我関せずって感じだったかなぁ。



 むしろ驚いたのは、その4種の飼育エリアが滅茶滅茶広いこと(見づらいが、場内地図右上に4つのアイコンが並ぶエリアがある)。檻とかじゃなくて「広場」って感じだった。恐らく、DQWの魔物ランドキャンペーンで見た、他のどの動物園の展示エリアより広かった。これも、混合飼育には重要な気がする。エリアが狭いとそれぞれの動物にストレスがかかるだろうし、不測の事態も起きるかもしれないけど、恐らくそういった心配はしなくていいくらいに広い。

ご冥福をお祈りします


 GMウォーロック誌の14号に、故・山本弘氏の追悼記事が掲載されていました。3月に亡くなられたということで、少し前に私も訃報を知りました。氏は黎明期のTRPG業界に大きな影響を与えた人物であり、またGMウォーロック誌の前身である「ウォーロック」誌の主要執筆者の一人だったと考えると、後継誌で追悼記事が組まれたのも必然なのでしょう。
 本誌に掲載された山本弘氏の著作リスト(ゲーム関連のみ)を見てもわかるとおり、山本氏には様々な顔がありました。小説家であり、ゲームデザイナーでもあったのです。また、初期のウォーロックには自ら描いたイラストを寄稿していたこともありました。本誌に掲載されているバルサスの要塞のリプレイ記事は、元のウォーロック第2号の掲載時は、山本氏自身が漫画を描いていたものです。



 その様々な顔のうち、私が一番好きだったのは、ゲームブック作家としての山本氏です。中でも「モンスターの逆襲」は「好きなゲームブックを3冊挙げろ」と言われれば、必ず入る一冊です。*1



 「冒険者に身内を殺されたゴブリンが、復讐のために旅立つ」という逆転したストーリーそのものは、いかにも山本氏らしい筋書きです。しかし、多くのゲームブックにおいて、アイテムを入手するというような形でしか成長要素を反映できなかったのに対し、「モンスターの逆襲」では、より強力なモンスターに変身していくという要素を取り入れ、ドラスティックにその能力が成長していくという画期的なアイデアを採用していました。
 といって、必ずしも強力なモンスターが有利というわけではありません。例えば、途中に出てくる女騎士と戦うシーンの際にユニコーンに変身していると、無条件でバッドエンドになる、という展開もあるなど、状況に応じてプレイヤーは適切な選択を迫られるシステムになっています。
 当時、トンネルズアンドトロールズでも「モンスター! モンスター!」というサプリメントが出たり、ファイティングファンタジーでも「モンスター誕生」という作品が生まれるなど、モンスター側の視点で物語が描かれた作品はいくつかありますが、本作は山本氏の個性が良く出ていました。

 また、ゲームブック以外の作品についても著作リストに挙げられているゲーム関連の書籍でいえば、キリスト教における「Q資料」の存在を初めて知った妖魔夜行や、ゲーム理論における四行原則を教えてくれたサイバーナイトなど、氏の広範な知識を活かしたSF小説も好きでした。サイバーナイトに登場する「MICA」は、今でも私が一番好きな「人工知能系SFヒロイン」だと思います。


  


 しかしゲームブック作家、あるいはSF作家としての氏の評価とは別に、TRPGデザイナーとしては、評価したいところと、個人的にどうしても納得できなかったところの両方が存在します。その最大のものが「モンスターたちの交響曲」に掲載されたデルヴァ砦のエピソードです。



 この作品のクライマックスシーンは、プレイヤーの一人がNPCを説得することで成立しています。これは、いかなるルールの処理にも基づきません。ソードワールドには交渉ルールすら存在しないのです。つまりプレイヤーキャラクターの交渉能力ではなく、プレイヤーの交渉能力が問われています。
 TRPGは、GMが人間だからといってプレイヤーは何をしてもいいゲームではありません。ゲームの世界観が推奨する対立構造の解消手段が存在するなら、ルール化するのが本来です。しかしソードワールドは、対立構造の解消手段がルール上戦闘しかないのに、戦闘以外の解決手段が最善である場合もある、とリプレイで提示したのです。しかもこれは最初のシリーズであり、リプレイが何冊も出版され、ソードワールドというTRPGのセッションのプレイスタイルが確立された後に、あえて変化球を投げたというわけではありません。



 そんな山本氏が最後にデザインしたTRPGが「TRPG大饗宴スーパーセッション」に掲載された「スーパー少年少女コミカルRPG 元気全開!」というゲームです。これはソードワールドと異なり、山本氏の単独著作です。つまり考えようによっては、他者に影響されない山本氏の思想が最も色濃く反映したTRPGである、と考えることもできます。
 このゲームは、ドラえもんのような藤子不二雄の漫画作品的な世界を再現するためのゲームです。そして、戦闘ルールが存在しません。戦闘によって事態が解決しないシナリオ展開を想定しているからでしょう。ではどのようなルールになっているかというと、実は普通のTRPGのルールから戦闘ルールだけを切り取ったような、行動判定ルールだけが存在するゲームとなっています。
 似たような思想のゲームは他にもあります。例えば、架空の学校の生徒をプレイする「学園パラダイス」。あるいは変身妖怪をプレイする「ゆうやけこやけ」などのゲームも、通常のTRPGから戦闘ルールだけを削除したようなルールになっています。



 一見すると、これで戦闘のないゲームというのが再現できるように見えるかもしれませんが、実はこれは非常にハンドリングの難しいゲームです。セッションで盛り上がるポイントがないからです(ちなみにこのことは「ゆうやけこやけ」の同人サプリメント「どこにでもあるふしぎ」で、デザイナー自身が対談の中で言及しています)。
 TRPGに戦闘ルールがあって、戦闘シーンが演出されるのは、プレイヤーが戦闘を好み野蛮な性格だからではありません。「異なる能力を持つ複数のプレイヤーが協力しあって、シナリオ上の課題を解消する」という、TRPGのプレイ形態に見合った、クライマックスの演出バリエーションとして、一番単純で、イメージを共有しやすく、かつルールに基づいてジャッジができる公正な演出方法が「戦闘」だから、多くのルールで戦闘ルールを採用しているのです。
 ちなみに、分かりやすい失敗例が、同じグループSNEから出版された「スクラップドプリンセスRPG」というゲームです。このゲームは、基本的にはソードワールドと同じ2D6システムを採用していたのですが、相手を説得するというルールがあります。しかしその内容は、精神攻撃力と精神防御力を設定して殴り合うという、数値を変えただけの単なる戦闘ルールでした。しかも原作の設定は、敵の説得行為などとは程遠い世界設定であり、非常に遊びにくいルールとして、某所でも有名だったゲームです(この作品は山本氏の作品ではありません)。

戦闘で解決しないTRPG

 では、この問題を解決したTRPG古今東西存在しないのか、と言われると、一つの回答ではないかというTRPGが、私の知る限りでは2つ存在します。



 1つが「RPGゲームマスターになる本」というガイドブックに添付されていた「ラウラ・マアの守護者」というゲームです。このゲームは南国の島を舞台にしたTRPGであり、一見普通の戦闘ルールを持つ他のゲームと変わらないように見えます。しかし、PCが戦う相手は、普通に敵として想定される敵対部族の構成員などの他に、災害や呪い、悪意といった実体の存在しないものを、儀式戦闘によって打ち倒すというルールがあるのです。
 例えば、相手を殺さず説得すべきというシーンを設定するのであれば、相手を物理的に倒すのではなく、相手が悪意に取り憑かれていることにして、その悪意の精霊を倒すことで、説得に応じられるようにする、というような展開が考えられるわけです。こういった形での戦闘が認められているゲームならば、全てのプレイヤーはルールに則って活躍でき、説得シーンというのも演出可能です。


  



 そしてもう一つ、この問題に解決法を提示したゲームがあります。それが「ウィッチクエスト」というゲームであり、その後継作である「駅前魔法学園」(正確にはその追加ルール「必勝! 魔法講座」)というゲームです。
 このゲーム、分かりやすくいえば「おジャ魔女どれみ」の世界観によく似たTRPGで、シナリオ上の障害を、敵との戦闘によってではなく、魔女の魔法という、通常の行動判定とは異なる行動で解決するルールが用意されています。さらにその精神的後継作である駅前魔法学園では、ステージ魔法と呼ばれるプレイヤー全員で協力して発動する魔法があり、これによって問題を解決するルールになっています。そしてルールブックにはっきりと「戦闘の代わりにステージ魔法を使用することでクライマックスとしてよい」となっているのです。
 普通のTRPGから戦闘ルールを削除するという形ではなく「戦闘に代わる解決手段としてのルールを用意することによって、敵を物理的に打ち倒すという以外の選択肢を用意した」という意味で、非常に画期的なゲームだったと思っています。以前から冗談交じりに、私が好きな天羅万象というゲームと、トーキョN◎VAというゲームは、それぞれ出て別々の方向でTRPGの極北と極南を突き詰めたゲームだという話をしたことがありますが、この「駅前魔法学園」もまた、違う方向で特定の方向を突き詰めたゲームと言えるでしょう、
 そしてこのゲームこそ、山本弘氏が提示した問題への答えの一つだったのではないかと、私は思っています。氏が生前、これらゲームの存在を知っていたかどうかは分かりません。もし知っていたら、どのような感想を抱いたか知りたくはありますが、その前にTRPG全般から距離を置いてしまったようです。


 私は今回のエントリを、教師に遺された最後の課題を解く生徒のような気持ちで書きました。これが、私なりの答えです。
 末筆になり恐縮ですが、日本のTRPGを語る上では欠かすことのできない、偉大な先人の冥福をお祈りしたいと思います。

*1:あと2冊は「フォボス内乱」と「ベルゼブルの竜」。