今日は前半のブレカナについてではなく、後半の「侍タイムスリッパー」について書きたいと思う。この動画で勧めされていたので、劇場まで見に行くことにした。
動画内では、アマプラで公開が始まっているので劇場版公開は終了しているような話の流れだが、実際にはデラックス版(ディレクターズカット版?)がまだいくつかの劇場で公開中なのだ。逆にいうと、最初にディレクターズカット版を見てしまったので、オリジナル版から追加されたシーンがどこなのか、というのは全くわからない。以下ネタバレになるので折り畳む。
社長が絶賛するのもよくわかる面白い映画だった。私が意識していなかっただけで、ちょっと前に話題にもなっていたようだし。ただ、過去にたまたま職場の人と話した時に思ったのが、このタイプの映画──他に私の好きな映画だと「フィールドオブドリームス」とかがそうなんだけど、これを全く受け付けない(ノスタルジーに価値を全く見出さない人)人が世の中にはいるので、そういった人たちには響かないんじゃないかな、という気がする。
ドクがいない
社長が言っているとおり、主人公(とそのライバル)が「江戸時代は良かった」というのを一言も口にしないというのも凄いが、他にも感じたことがある。
この映画では、タイムスリップのプロセス、何が原因で起こるとか、あるいは主人公たちがどうやったら元の時代へ戻れるかとか、そういったものを調べるシーンが一切ない。元の時代に帰らなければ、というストーリーラインそのものが存在しないのだ。
タイムスリップものとしての自分の原風景は「バックトゥザフューチャー」と「ママは小学4年生」というアニメなんだけど、どちらの作品にもタイムスリップについて研究している研究者が登場する。どういったメカニズムでそれが起き、それをもう一度起こすことでタイムスリップしたものを元へ戻そうとする、という役割を持つ人間が登場するが、この作品には一切登場しない。
誰も知らない真実
また、これも結構衝撃だったのが、結局主人公(とそのライバル)が「江戸時代からタイムスリップしてきた」という真実を知ることになる人間が、お互い以外誰もいない。周りの人間が受け入れないという以前に、そもそも主人公自身が(紛れもない真実でありながら)周りの人に話して受け入れてもらおうということを試しすらしないのだ。
言ってしまえば、転移元がファンタジー世界だったとしても、過去のアメリカ西部だったとしても、主人公たちのメンタリティ以外にはほぼストーリーラインに影響を与えない。この割り切りもなかなかだ。
これも社長がいう「前を向いている物語」を象徴する事象で、恐らく「『自分は実は江戸時代からタイムスリップしてきたのだ』というのを打ち明けたとして、仮にそれが真実であっても、物語は前に進まない」という前提で作られてるんだろうな、という、そこが非常に新しい感覚だった。
この作品は二重構造でできている。
一つは時代劇。この物語の一つの主題は、主人公や周りの登場人物が「もう時代劇は時代遅れ」と言われつつも、そんな時代劇を作っていくことだ。これに対し、主人公が元いた江戸時代に時代を戻すのは、誰がどう見ても不可能な話である。
この二つが両映しにされているということは、つまり時代劇の存在も、江戸時代と同じように捉えている、ということになる。つまり、江戸時代に戻れないのと同様、もう時代劇が沢山作られていた時代にはどうやったって戻れない。それを踏まえた上で、今をどう生きるか、というのがこの作品のメインテーマなのだ。
俺たちは互いにこの国を想って、己の信ずる道を精いっぱい生きた。それでよいではないか。
あの頃の俺たちの想いも、時代劇も、やがて忘れ去られる日が来るだろう。
だが、今日がその日ではない。
なんか、半分くらい動画の内容と被ってしまった……。あと面白かったのが、助監督役で出てくる女優さん。スタッフロールを見たら、作中で助監督を演じている同様に、小道具製作から何からこなしていて、思わず笑ってしまった。あまり意識していなかったが、そういうところを見ると、これはインディーズ映画なんだな、というのを実感する。
動画の最後で社長が邦画について語っていて、それに因んでというほどのこともないが、私が見てきた邦画の話をそのうち書こうと思うが、長いエントリになるのでまたの機会にしよう。