それは最後で最初の物語

 かつてRPGの世界がダンジョンだけであった頃、マッピングという言葉が表すように、それは隅から隅まで踏破されるのが当たり前だった。ダンジョンは一層一層が区切られており、次に進んで敵が強すぎると思えば、前の階に戻るというシンプルな構造でできている。
 それがワイルダネスアドベンチャー、屋外での冒険をカバーするようになると、プレイヤーの自由度が増すのと引き換えに、ダンジョンでいうところの階層、つまり「レベル分不相応な場所に誤って踏み込まないようにするため」の安全策が必要になってくる。
 例えば「海」だ。
 ドラゴンクエストが代表的だが、海によって陸地を分断し、イベントなどをクリアしないと先に進めないようにする。イベントをクリアする時点である程度のレベルが担保されれば、そこから先に進んでも問題ない、つまりダンジョンにおける階層の役割を果たしているというわけだ。
 この「イベント」として一番分かりやすいのが「船を入手すること」であり、FFであればその延長線上にある「飛空挺を入手すること」だ。
 
 レベルを上げてイベントをクリアし船を入手する、それによって冒険の範囲が飛躍的に広がることには大きな達成感がある。このこと自体はとてもいいことなのだが「行けない場所に行けるようになる」ことをカタルシスにする以上、最後には「行けない場所がなくなる」つまり「世界の果てにも自由に到達できるようになる」ことが最後の到達点になる(*1)。
 ドラクエ然り、FF然り、船を用意した時点で「世界の果て」は作らざるを得ない。すると「地図の端に着いたらどうなるか」を当然考える必要が出てくるのだ。


(*1)もちろん最初から「地図は世界の一部に過ぎない、端に着いたら謎の力でそれより先にはいけなくなる」という設定にするなら別だが、そうするとプレイヤーのカタルシスは得にくくなる(征服感がなくなると言った方がいいだろうか)。


 RPGにおける地図が、地球のような球体をメルカトル図法で記述しているものだと仮定するなら、自然なのは(あえてリアリティという表現は避けさせてもらう)「東西は繋がっているが南北は繋がっていない」、という処理だろう。地図の上下端に着いた時点で本来の航路と同じように別の場所(*2)に現れるという処理もあり得るが、感覚的には非常に分かりづらい。
 しかし、左右は繋がっているのに上下が繋がっていないというのは、地図上を移動しているプレイヤーにとっては不便だ。マップが広ければ広いほど、上下を移動するのにかかる時間は長くなるわけで、上下が繋がっていてショートカットできる方が利便性が高い。
 指摘している人もいるが「リアリティより利便性を優先した結果が、上下左右の繋がっている地図」ということになるのだろう。


(*2)「現在位置から、地図の上下端の長さの半分だけずれた場所に、上下端突入時の角度と対称の角度で現れる」というのが本来の挙動になる。地図の中央を、90度の角度でもって上下端に到達したら、次には地図のちょうど左右の端をなぞる航路になるだろう。


 個人的な意見だが、世界はドーナツ型をしているというよりも、かつての地動説のように世界は平面の上にあり、魔法の力で地図の上下左右が繋がっているという方がファンタジーっぽいと思う。どのみち移動の問題をクリアしても、極点方面の面積が大幅に狂う問題はクリアできないのだから「この世界は平面だ! なぜならファンタジーだから!」と開き直ってしまってもいいんじゃなかろうか。宇宙空間に平面世界がぷかぷか浮いてると考えるのもファンタジーっぽくて楽しい。


 なお、私は世界の果てがわからないゲームの方が好きだ。象徴的なのが「白き魔女」のオープニングにあるこの言葉。


「この物語は、ガガーブの先に世界はなく、大蛇の背骨の果てにも世界はないと信じられていた時代の最後の物語である」



 これこそファンタジーだと思うのだが、いかがだろうか。